「教会だより」の巻頭言2月号


キリスト者の歩み

カトリック唐津教会  

 主任司祭 江夏國彦

 2月になるといつも思うことは、日本の信仰の礎を築いてくれた日本26聖人殉教者のことです。記録を読むと神の恵みが強く働いたとしか言いようがない出来事がいくつも書かれています。命を賭けて信仰を貫き通した人々がいることを思うとき、わたしたちは殉教の恵みを受けることはないにしろ、どうして現在もキリスト者として生きているのか、その確かな理由を胸に秘めているのか問われれいるような思いになります。


 最初のキリストの弟子たちがどのようにて弟子になったのか福音書からわかることは、まずキリストが先に彼らを呼び出しました。普通は師弟関係ができるとき、弟子になりたい人が先に師に願って弟子にしてもらうのが常ですが、キリスト者としての召命は、いつもキリストが先に呼び出すということです。私たちが選んだのではなく、キリストが私たちを先に選んだということです。私たちキリスト者は、いつも心の底にキリストが私を呼んでくださったという思いがありますかと問わなければなりません。


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」という言葉の原文の意味は、回心、つまり心を神に向けることです。これは一生涯のことであって、生き方が変わることを意味しているのです。単に道徳的な反省を意味する以上に、全身全霊で「神に立ち帰る」ことを表す言葉です。回心しない者は、ついて行くことができないのですが、しかし、回心は始まりであって、弟子たちも長い期間をかけて、回心の道を歩みました。私たちも絶えず回心の道を歩んでいるか問われています。

 さらにキリストは弟子たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。イエスの召し出しは、ついて行くことが重要なのです。資質や才能があるから、神は私たちを召し出したのでのでもなければ、弟子になるのに相応しいからでもありません。ただ神のみ旨によって、すなわち神の計画の中で、呼び出すのです。そこに神秘さがあります。最初の弟子たちも、特別優れた人間であったからではなく、皆ごく普通の人であり、性格もいろいろでした。しかもキリストの教えは、知識を身につければ解るというようなものではなく、キリストと共に生きることによって少しずつ分かってくるものだと思います。 その意味で、教会の共同体と共に生活することが重要です。


 ただひたすらに忠実にイエスについて行けば、キリストご自身が導き、育て、使命を与えてくださるでしょう。そうすれば、わたしたちの信仰生活を通して、その生き様が人々の証しとなり、同時にその事自体が「人間をとる漁師」良き宣教者ともなっているのです。


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