「教会だより」の巻頭言 12月号

 


人の思いを超えた神の業

カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

 主の御降誕おめでとうございます。

「神の計らいは限りなく生涯わたしはその中に生きる」(典礼聖歌52

 神さまの救いの計画は、人間の思いをはるかに越えた方法で実現していきました。その一つが、主の御降誕の出来事です。

神の独り子が人となるということは、人間の考えでは不思議なことです。人間には思いもつかないやり方でした。さらに救い主の誕生の時期も場所も誕生の知らされ方も常識的ではありませんでした。

また御父の独り子として誕生したイエスの福音宣教方法もそうでした。更に言うなら宣教の時期も場所も私たちにはふさわしくないと思われる時でした。時期的には、洗礼者ヨハネが捕らえられた時であり、ヨハネの弟子たちはがっかりしていた時でした。宣教活動の挫折のような時でした。そして宣教の開始の場所もしかりです。ガリラヤの湖のほとりカファルナウムでした。そこは宗教的にも文化的にも民衆の関心は低い異邦の地でした。

イエスが選んだ弟子たちは、世に知られた文化人ではなく、弱さを持った平凡な人々であり、特別才能のある人々でもありませんでした。どれもこれも私たちの思いからすれば、ふさわしくない時、場所、やり方、開始時期、選ばれた弟子たちであったように思われました。神さまの計らいは何と不思議なことでしょう。

イエスのガリラヤ地方から宣教を始められたのですが、救いは選民イスラエルの民だけではなく全人類に及ぶものでした。そして今も続いており、私たちはその協力者なのです。ですから協力者として私たちはキリストのやり方を心得ておく必要があると思います。キリストは、私たちの思いをはるかに超えたやり方でそれを実現されてゆかれる方なのです。人間的な思いやこの世の常識に捕らわれることなく、いつも神の御旨を求める心構えが必要です。

 神さまは私たちの働きを通して、意外な方法で宣教に役立てて下さることもあります。自分の欠点や弱さがかえって役立ち、物を持ち合わせていないことがかえって益になることもあるのです。何よりも、「私に従いなさい」といつもイエスは私たちに呼びかけておられます。その声に気付くこと、そして従うことが大切です。そのことのために、どれほど長い時間が流れようと、主は忍耐強く待っておられるのです。才能や財力、また政治的力を当てにすることなく、主に信頼し、福音宣教の仕方を主に学びたいものです。

キリスト者である私たちは皆、福音宣教の使命を受けています。それを実行するために、クリスマスの出来事は、示唆に富む事が多く含まれていると思います。クリスマスを神のなさる不思議な業を思いめぐらす季節にしたいものです。


「教会だより」の巻頭言 11月号

 

鏡山展望台から望む唐津湾

ホイヴェルス神父の思いで 

カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

  11月は死者の月です。過去の懐かしい方々を偲び、秋の夜長に物思いにふけることが多いものです。故人を通して受けた多くの恵みを神に感謝し、信仰の道を見つめ直すのです。

 わたしは、大学時代に出会ったイエズス会士、ヘルマン・ホイヴェルス神父のことが懐かしく思い出されます。ドイツから宣教師として日本に来られた師は、カトリックの司祭としてだけでなく、上智大学の大学教授・学長として、劇作家として53年間、日本人と日本文化を愛して生涯を全うされた人です。

晩年のホイヴェルス神父にドイツの友人が贈ったものと言われている詩があります。

            < 最上のわざ >

この世の最上のわざは何?

  楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

 しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、

 従順に・平静に・己の十字架をになう!

若者が元気いっぱいで

 神の道をあゆむのを見てもねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも

  親切で柔和であること!

老いの重荷は神の賜物・古びた心に

 これで最後のみがきをかける。

 まことの故郷へ行くために!

己を此の世につなぐくさりを

 少しずつはがして行くのは真にえらい仕事。

こうして何も出来なくなれば、

 それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後に一番よい仕事を残してくださる。

それは祈りだ! 手は何も出来ない。 

けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために!

すべてをなし終えたら、

 臨終の床に神の声をきくだろう!

「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と!

       

 老司祭、ホイヴェルス神父は、いつも物静かで、柔和で、祈りの人でした。眼は遠くを見つめているような眼差しで、慈愛に満ちていました。師の話す日本語は美しく、味わい深いものでした。そばに居るだけで何となく平和な気持ちにさせてくれる聖なる人でした。

 私たちが出会いを通して自分の人生に深い影響を与えてくれた故人たちを偲び、弔うことは、天国での再会を希望させ、故人への感謝と相まって、この世での命を精一杯いきるように促されます。

 聖パウロは自分の晩年の心境を次のように述べています。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(Ⅱテモテ4:6-8)