「教会だより」の巻頭言 1月号

加布里公園の大樹(糸島市)

 新しい命を生きる信仰者    

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

  明けましておめでとうございます。今年こそは世界平和を願わすにおれません。

  ロシアのウクライナ侵攻で世界の平和が脅かされ、世界経済状況も悪化の一途をたどっています。コロナウイルス感染拡大の第8波も迎えています。その上、地球温暖化の影響で今年も何か大きな自然災害が起こりそうな気がして人々は不安を抱いていると思います。

  信仰に生きる私たちは、こういう時代だからこそ、復活信仰への思いを新たにしたいものです。復活こそ私たちの希望、信仰の核心だからです。復活を信じる者にとって、この地上での生活は通過してゆくところであり、この世にあっては旅人のように過ごすところです。あたかも慈悲深い父なる神のもとに既に迎え入れられたかの如く、この世を生きる信仰者はもう、復活の新しい命を生きているのです。

  この世での誕生のときのイメージで考えてみると、母親の胎内に命が宿ったとき、その胎児は、目も見えず、外界にも触れられず、この世をまったく知らないものです。その子は自分の住んでいる世界である羊水の中にあり、体に入り込んでくるさまざまな食べ物や栄養を母親から貰いながら生きています。その子にとってそこは保護され、幸せで安全な世界です。けれども、やがてその子はそこを去らなければなりません。その心地よい世界を去るということは、その子にとっては死を意味しています。その死を迎えた瞬間、その出来事は死ではなく新しい命の誕生だったのです。その子はきっと、母親の手に抱かれ、やさしく声を掛けられながら、羊水に浮かんでいた時に、聞こえて来た微かな声、ぼんやりと聞いていたあの声の持ち主は、実はこの人だったのだ、胎内にいる自分に毎日のように伝わってきた振動の感触は、この人の手だったのだ。愛する自分に向けて摩る音だったのだ。自分は胎内で、生きるための全てをこの人から貰っていたのだと知るでしょう。そして今、安心して、顔と顔を向き合わせて新しい世界に生きる者にされたのです。

  聖パウロは言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子(イエス・キリスト)に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20

  この世での命の誕生を喜んだように、さまざまな苦しみや喜びを潜り抜けて後に迎える死についても、新しい命の誕生、復活信仰に生きる私たちは、喜びと感謝を神に捧げるのは当然なのです。今年もこの世での命の限りを尽くしてしっかりとキリストと結ばれる復活信仰を深めることができますように。