「教会だより」の巻頭言 6月号

 


命のパン

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏 國彦

 六月の第二主日はキリストの聖体の祭日です。信仰者である私たちにとって、御聖体は命の糧、生きる力、霊的生活の頂点です。この命のパンをめぐってイエスの弟子たちが短時間のうちに心の変化を遂げてゆくエピソードが聖書(ルカ24:13-35)に書かれています。

 二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていました。昼下がりの時刻で外は明るかったが、エルサレムでの出来事のことで二人の心は暗かったのです。不安と恐れと失望の気持ちに包まれていました。そのような時に、復活したイエスが近づいてきて、聖書のみことばを説明してくださり、彼らの心は燃えていました。ところがその方がイエスであると気がつきませんでした。彼らの目はさえぎられていたのです。

 夕刻になって「主よ一緒にお泊まりください」と願いました。旅人の家で共に食卓に着き、イエスが賛美を捧げてパンを裂いて与えられた時、二人の弟子は気がつきました。旅の道中ずっと一緒に対話していた方が誰であるか分からなかったのに、このとき初めて復活されたイエス・キリストであることを認識したのです。二人の目は開けました。みことばを説明されていた方は「十字架にかかって死んだイエス」だと認識できて驚いたのです。復活した主に出会ったのです。しかし聖書の記事によると、そのときイエスの姿は見えなくなり、パンだけが見えて残りました。

 共に食したパンは、最後の晩餐のときに制定された御聖体を暗示しています。イエスは私たちに食されるパンとなられたことを示されたのです。外はもう暗くなっていましたが、パンを頂いた二人の心は明るく、喜びに満たされていました。主と一つになったからです。その喜びを一刻も早く伝えたくて、暗がりの夜道をエルサレムの仲間たちの所に、このことを知らせに行ったのです。復活されたイエスと出会い、心が一つになった二人の弟子は、僅か数時間で大きな変化を遂げたのです。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ。

 肉眼で見えなくなっても、イエスと心が一つになることによって、目で見ること以上に満足し、嬉しい気持ちになったのです。

夕陽が沈み辺りは明るみから暗闇へと変化しました。しかし、二人の心は逆に明るくなったのです。主の死による失望は希望へ、悲しみは喜びへと変えられたからです。

 御聖体の秘跡を思うとき、神の計らいの不思議を感ぜずにおれません。神であられた「みことば」は人となり、さらに永遠の命の糧である「パン」にまでなって、私たちと一つになろうとされたことはイエスのへりくだりです。そしてそれは愛の業なのです。私たちキリスト者もこの一致の喜びを人々へもたらす者となるように召されたのです。

 分裂もあり、憎しみもある現実の生活に一致をもたらすことは人間の力だけではできません。全ての一致の源は御聖体の中にあるのです。御聖体は、ゆるしと和解、そして一致へと向かうように私たちをあらゆるところへ派遣してくれる力があるのです。