「教会だより」の巻頭言 5月号

 

衣干山の桜

天からのしるし

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

宇宙の神秘や人間同士の複雑な関係、歴史や人智を越えた出来事など自然は超自然のしるしとなるのです。何故なら、しるしは何かを指し示し、超越者の存在を眺望させるものだからです。勿論、信仰心があってのことで、全てを合理的理性で理解しようとする人にとっては、これらのしるしは学問の対象でしかありません。しかし信仰あるものは、これらのしるしを通して奥に秘められた偉大なる方の存在を感じ取るのです。

ところで聖書で使われる「しるし」とはどのような意味でしょうか。しるしは抽象的なものの象徴であるか、あるいは人類の救いのためになされる前表としての不思議な業をいいます。「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。」(マルコ8:11)とあります。これは、僅かなパンと魚で数千名の人々の空腹を満たされた奇跡がなされた後のことでした。これほどの大きなしるしを目撃していながら、まだ天からのしるしを求めるファリサイ派の人々に対してイエスは「まだわからないのか、まだ悟らないのか」と嘆いておられます。

大事なことは、しるしの意味するところを理解することです。パンと魚が次々と増えていったという不思議さ、その現象に心を奪われて、そのしるしを通して理解すべき最も大事なことをファリサイ派の人々は見過していたのです。あんなに多くの人々を養うことが出来たイエス・キリストは、真のパン、霊的な命を与える方であることを示していたのです。パンが増えた奇跡の出来事は、秘跡のパンである御聖体の前表でした。従ってこのときのしるしは、イエス・キリスト御自身です。

「まだ悟らないのか」とは、信仰を求めておられる言葉です。そして「信じる」ということは人格的な行為です。私という、全存在あげての態度決定であり、人間の生きる姿勢です。その人の人生観や生き方に決定的な影響を与えるのです。しかし、悟ると言っても、それは自分の考えや体験からくる自分の悟りではありません。神から与えられるものです。神のみことばに照らされて悟らせていただくのです。

旧約聖書も新約聖書もその中心テーマは「イエス・キリストは誰か」ということでした。そのことがはっきりと現れたのは「あなたたちは私を何者だと言うのか」とイエスが問われたときでした。そのときペトロは「あなたは生ける神の子、メシアです」と信仰告白しました。これはペトロのイエス・キリスト理解、彼の悟りでした。イエスはその答えをほめられたのでした。しかし、その答えは人間の知恵によるのではなく、天の父から与えられたものであるともイエスは言われたのです。

詩篇32に次のように書かれています。「私は、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。私はあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」私たちは、自分の人間的な悟りを捨て、神のみことばを通して、また現代世界や自然界に起きるしるしを通して、神の御旨を悟ることが必要なのです。その恵を願いましょう。


「教会だより」の巻頭言 4月号

 


突然、復活された主が見えなくなった

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
 
 教会暦は今、復活節を迎えています。復活に関しての聖書箇所は沢山ありますが、エマオへの旅人の話(ルカ24:13-35)は不思議な事を述べています。そこには見落としがちな重要なことが含まれています。

 二人の旅人は、3時間近く復活されたイエスと会話をしながら 歩いていたのに、その方がイエスだとわからなかったとあります。大変不思議なことです。それ以上に、イエスは夕食に招かれてパンを分け与えられたとき二人の旅人は、やっとイエスだと気がついたのです。しかし、その時、復活したイエスの姿は見えなくなったとあります。なんと、不思議なことでしょう。
 
 ところで、この復活の記事をどのように受け止めたらいいのでしょう。どうして急に見えなくなったのでしょうか。確かに、姿が見えなくなったとルカは記述していますが、存在しなくなったとは言っていません。多分、すでに復活の主と一つになったこと、復活の信仰を自分のものにすることが出来たことを意味しているのだと思います。そうなると、肉体の目で見えるか、見えないかは、もはや重要なことではないのです。復活した主が確かに私たちと共にいてくださるという信仰を得たら、目で見て主と一つになるのと見えなくても信仰において主と一つになることは同じことなのです。
 
 キリストを知る重要な二つの方法は「聖書に親しむことにより、キリストを知る」、「パンを裂く式に参与して、キリストを知る」ことです。二人の旅人はエマオへの道中、ずっとイエスに、聖書に書かれていることについての説明を受けていたとあります。その時、彼らは心が燃えていたのです。パンを分け与えられたとき、初めてイエスだと気が付きました。聖書の説明を受けたときも、パンを分け与えられたときも、どちらも私達の努力の報いではなく、神の恵みです。そしていずれの時も心は喜びで満たされ、共にいてくださる方への確かな信仰へと導かれたのです。

 食事を共にしてくださった時、復活されたイエスからパンを頂いて、突然イエスが肉眼の目で見えなくなっても、二人の旅人は喜びに満たされていたように、わたしたちが、ミサの中で聖体拝領をするとき、イエスと心が一つになったことで喜びに満たされているかが問われているのではないでしょうか。

 聖体拝領は、信者の努めを果たして得られる安堵感のようにでもなく、心の栄養剤を頂いて癒やされるかのようにでもなく、拝領するたびに、復活の主と心が一つなった喜びがあることが重要なのではないでしょうか。勿論、復活の主と心が一つになるのは、この世においては瞬間的なことでしょうが、その出来事は、将来、私たちの完全な復活の秘儀に与るための前触れでもあるのだと思います。その意味で、わたしたちは、既に主の復活の秘儀に与り始めているのです。わたしたちに先立って、復活してくださった主に感謝しましょう。
  
  主はまことによみがえられた。 アレルヤ !

「教会だより」の巻頭言 3月号

 


主の復活おめでとうございます   

主任司祭 江夏國彦

  今年は、3月に復活の主日を迎えます。自然界も、寒い季節を耐え抜いて、春の喜びを伝えているかのように輝いています。

聖パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリ15)と述べています。

 ところで、どのように復活を信じているのでしょうか。学問的で抽象的な知識としてではなく、日常の生活の中で具体的にどのように実感するのでしょうか。

 聖パウロが言うように、この世の生活でキリストに望みをかけているだけ、すなわち私たちの復活は死んだ後に復活することを希望しているだけでは惨めな者であるということです。そうではなく、あの世の復活の現実が、この世において既に始まっていることを信じ、復活信仰を生きることが重要なのです。

 それは例えて言えば、トンボのまだ醜い幼虫が次第に少しずつ準備され、いつの日か脱皮して、美しい羽を持った成虫に変化し、羽を広げて大空に飛び立つように、私たちも溢れるほどの神の豊かな恵みを受けて、利己的で、わがままな人間が次第に変容してゆき、神の御旨を生きる人間へと変わるのです。このように少しずつ復活の体験をさせてくださるが、まだ完全な復活ではありません。しかし、この世にあって既に復活が始まっているのです。

 どのようにその変化を実感するのでしょう。私たちの目は、今まで気がつかなかったことに気がつくようになり、心の目が開かされて、見えなかったものが見えるようになるのです。人々の悲しみ、叫びが聞こえる耳になり、深い理解と共感を抱くことができるようになり、ゆるし合い、愛し合うようになるのです。しかし、そのように変えられてゆく道のりは、自分の努力だけではなく神の恵みに受け、生かされて歩む道です。多くの苦難や苦しみを越えながら、それが実現してゆくのです。キリストの教えに忠実に生きることは大変なことですが、しかし、この変化してゆく過程は、神の恵みによって完全な復活に至るための道程なのです。

 三歳のとき特発性脱疽になり両手両足切断という非業の運命を受けた中村久子女史(1897-1968)は、幾多の苦難を乗り越えて生き抜いた作家であり、宗教家(仏教徒)でした。絶望の淵から希望を見出した彼女は晩年、次のような言葉を遺しました。「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのです。」


「教会だより」の巻頭言2月号


キリスト者の歩み

カトリック唐津教会  

 主任司祭 江夏國彦

 2月になるといつも思うことは、日本の信仰の礎を築いてくれた日本26聖人殉教者のことです。記録を読むと神の恵みが強く働いたとしか言いようがない出来事がいくつも書かれています。命を賭けて信仰を貫き通した人々がいることを思うとき、わたしたちは殉教の恵みを受けることはないにしろ、どうして現在もキリスト者として生きているのか、その確かな理由を胸に秘めているのか問われれいるような思いになります。


 最初のキリストの弟子たちがどのようにて弟子になったのか福音書からわかることは、まずキリストが先に彼らを呼び出しました。普通は師弟関係ができるとき、弟子になりたい人が先に師に願って弟子にしてもらうのが常ですが、キリスト者としての召命は、いつもキリストが先に呼び出すということです。私たちが選んだのではなく、キリストが私たちを先に選んだということです。私たちキリスト者は、いつも心の底にキリストが私を呼んでくださったという思いがありますかと問わなければなりません。


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」という言葉の原文の意味は、回心、つまり心を神に向けることです。これは一生涯のことであって、生き方が変わることを意味しているのです。単に道徳的な反省を意味する以上に、全身全霊で「神に立ち帰る」ことを表す言葉です。回心しない者は、ついて行くことができないのですが、しかし、回心は始まりであって、弟子たちも長い期間をかけて、回心の道を歩みました。私たちも絶えず回心の道を歩んでいるか問われています。

 さらにキリストは弟子たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。イエスの召し出しは、ついて行くことが重要なのです。資質や才能があるから、神は私たちを召し出したのでのでもなければ、弟子になるのに相応しいからでもありません。ただ神のみ旨によって、すなわち神の計画の中で、呼び出すのです。そこに神秘さがあります。最初の弟子たちも、特別優れた人間であったからではなく、皆ごく普通の人であり、性格もいろいろでした。しかもキリストの教えは、知識を身につければ解るというようなものではなく、キリストと共に生きることによって少しずつ分かってくるものだと思います。 その意味で、教会の共同体と共に生活することが重要です。


 ただひたすらに忠実にイエスについて行けば、キリストご自身が導き、育て、使命を与えてくださるでしょう。そうすれば、わたしたちの信仰生活を通して、その生き様が人々の証しとなり、同時にその事自体が「人間をとる漁師」良き宣教者ともなっているのです。