「教会だより」の巻頭言 10月号


 

命の水を得た女性の話    

カトリック唐津教会主任司祭 江夏國彦

平和で何不自由ない生活をしていても、心の渇きや不安が消えるとは限りません。地球温暖化の問題、新型コロナウイルスと共に生きる時代の難しさ、核戦争に対する恐れ、経済的格差の問題などに直面し、同時に個人的な問題も解決できないままで生きる者にとっては、炎天下の広い砂漠の中を当てどもなく延々と歩いているようなものです。

ヨハネ福音書(4:1-30)にある話です。イエスが旅に疲れてヤコブの井戸のそばに座っておられた。そこへ正午頃、サマリアの女性が水を汲みに来てイエスに出会った。ユダヤ人は、サマリア人とは宗教上の理由で対立しあっていたので、イエスが「水を飲ませてください」と言われたとき彼女は驚きました。ユダヤ人から声をかけられ、物乞いされることは考えられないことでした。しかも彼女の器を借りて水を飲まれたのです。それほど近づいてくださったのは、彼女の悲しみ、心の渇きを見通して癒してあげたかったのです。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とイエスが言われたとき、女性は飲み水のことと思って「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」と言っています。

イエスは彼女が体験してきた様々な結婚生活を言い当てる事によって、心の問題に触れられた。それは彼女の厭世的な生き方を根底から問い直す機会になったのです。神を求める気持ち、救いへの希求へと導かれ、もっと質問をしようとします。今の生活は、満たされていなかったのです。

イエスとの対話によって、いままで体験した事のないほど深く、自分の人生と真摯に向き合うことになりました。彼女の中に内在していた渇きが目覚めたのです。「私は、メシアがおいでになることを知っています。その方がおいでになるとき、一切の事を知らせて下さるでしょう」という言葉は、魂の叫びであり、同時に彼女の信仰の披瀝となっています。

「メシアは、あなたと話をしているこのわたしである。」との言葉は、彼女に信仰の決断を迫りました。信じるか否かの決断です。信じることができた彼女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に告げたのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」生活の必需品である水がめを置きざりにするほど大切なものを得たのです。命の水が湧き出て、彼女の心の水がめは、あふれるほどになり、それを喜びいさんで持ち帰り、命の水、キリストを人々に知らせるために町に出かけて行きました。

私たちもイエスとの出会いによって、真の命の水、生ける水で心の渇きが癒されますように。そして喜んで福音を告げ知らせる者になれますように。