「教会だより」の巻頭言 2月号


 

生かされている命      

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 今年は222日か灰の水曜日です。その日から四旬節の季節が始まり、40日間かけてキリストの死と復活の秘儀に与る準備をします。どんな人にとっても生と死は隣り合わせ、死と向き合うことは、生と向き合うことになるのです。だから忌み嫌うことなく、自分の死と真摯に向き合うことは大切です。

20年以上前ですが、一緒に宣教活動をしたフランシスコ会士の高橋 明神父は、クリスマスの早朝、60才の若さで急に天国へ召されました。彼は無類の車好きでした。愛用していた車には、大きく「555」とボディーペイントしてあり、とても目立ちました。そのことが信徒の間で何かと話題になりました。通夜のお清めの席で、ある信徒が次のような俳句を披露して、大受けでした。

「ごうごうごう サンタとともに 神の国」

 英語の“Go, go, go ! にかけて、行け行けと、サンタクロースの橇に乗って、天国へ行ってしまったと詠んだのです。彼は週3回の透析を28年間続け、手術も何度も受け、死をさまよったこともありました。重い十字架を背負っての一生でした。頂いた才能、働くために与えられた短い時間、この世での喜びと苦しみ、そして命を捧げ尽くしました。弱り行く自分の体の健康管理をしながら、毎日死と対峙して、苦しみを神さまにお捧げし、頂いた善きものも次第に神さまへお返ししてゆく生涯でした。

 このようにすべてを神に委ねる生き方に人間の尊厳を感じます。私たちは確かなものを自分のうちに何も持たない自分の姿が見えてきた時に、自分が生きているのではなく、生かされているのだということを知らされます。そのとき初めて、自分の持っているものに頼っている自分の愚かさが見えてくるのだと思います。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われたのだ。主のみ名はほめたたえられよ」という旧約聖書のヨブ記の言葉が思い出されます。

それにしても、持っているものを一つ一つ手放してゆかなければならないことは、なんとつらいことでしょう。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:7-8

 人は生きてきたようにしか、死ぬことはできないのです。