「教会だより」の巻頭言 5月号



 聖母月によせて

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

聖母月を迎えました。命を精一杯生きているものは喜びが満ち溢れています。美しい季節、五月が聖母マリアに捧げられた月とされたことはふさわしいことです。マリアは教会の母として、私たちの信仰の歩みのかたわらにいて、見守り、助け励ましてくれます。聖マリアの取次ぎを願って祈る私たちは、どれほど多くの恵みを神からいただいたことでしょう。神の創造の業の大いなる協力者なのです。命を育む業に参与することは美しく、尊い業です。その業にすべての人が参与するように招かれています。

 ある女性が、初めて母になった時の喜びを川柳に託して次のように詠みました。

 「私でも ママになれたよ ありがとう」

  若い女性が母子ともども元気で出産できるのか、出産してもその子の母親として務まるのか心配な日々を過ごしたのでしょう。そんな母親の不安をよそに元気な赤ちゃんが生まれて、その子にも、授けてくださった神様にも感謝したい気持ちが「ありがとう」という言葉になったのでしょう。母親になった喜びと、いただいた命を大切に育てようという意気込み、そして明るい希望を抱かせます。普通に交わされる会話の平易な言葉を七五調にすると、こんなにも読む人の想像を掻き立てる句になるのですから不思議です。

 ところで母親にちなんでもう一つ紹介しましょう。やはり読者の想像を豊かにさせてくれます。「日本一短い母への手紙」という本の中に載ったものです。

「あと十分で着きます。手紙より先に着くと思います。あとで読んで笑って下さい。」

 おそらく普段は、母のもとを離れて暮らす青年が久しぶりに帰郷するとき、家にたどり着く十分前に母親に宛てて書いた手紙を投函したのでしょう。もうすぐ母に会えると言うのにどうして手紙を出す必要があったのでしょう。自分の帰郷を知らせるためではないことは明らかです。多分、彼は、久しぶりの母との出会いで、母の喜ぶ姿を想像すると同時に、再び母のもとを去った後に母が抱く寂しさまで想像したのだと思います。そして母が少しでも慰められるために笑いに満ちた手紙をしたためたのでしょう。手紙を簡単に電車や車の中では書けないでしょうから、きっと彼は母と会える日を心待ちしながら数日前から書いて準備したのだと思います。日帰りだったか、一泊出来たのか、忙しい彼は、限られた短い時間を最大限使って親孝行をしたのでしょう。なんと思いやりに満ちたはからいでしょう。こんな息子を持つ母親は幸せです。

 教会の母であるマリアの子、イエス・キリストも復活した後、多くの弟子たちに現れ、天の父のもとに帰る時が来たとき、別れに先立って、その母と弟子たちを慰めるためにご自身の霊、聖霊を遣わすことを約束されました。それは一時的な慰めではなく、永遠に続く、しかもこの世のあらゆる不条理の根本的解決策を与える真理の霊でした。このイエスのはからいは、何物にもかえがたい弟子たちへの愛に満ちた心配りだったのです。その同じ霊は今もキリストの弟子となった私たちの上にも豊かに注がれているのです。