「教会だより」の巻頭言 6月号

 


遅まきながら

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

随分、月日が経ってから自覚したり、気づかされたりするのが私たちの人生です。病気になって、気づく健康のありがたさ、愛するものを失って初めて自覚する言葉の意味深さ、無駄のように思えていたあの時の苦労があったからこそ、今の自分があると気づかされること、等々。

様々な精神的な遍歴を経た聖アウグスチヌスが、深い神との交わりに辿り着いた心境を次のように述べています。「古くして新しい美しさよ、私があなたを愛したのは、あまりにもおそすぎた。あなたは、実に、私のなかに居られたにもかかわらず、私は外に居て、あなたを外に求めていた。そしてあなたの造られた美しいものたちのなかに、身を投げ入れて、醜い姿となっていた。しかも、あなたは、私とともに、居られたが、私は、あなたとともには、居なかった。私は、長い間、それらのものに引き止められて、あなたから遠くへだたっていたが、しかしそれらのものも、あなたのなかに、存在するのでなければ、存在することも出来なかったのである。あなたは私に呼びかけられた。叫ばれた。そうして、私の閉ざされた耳を開いてくださった。あなたの光がひらめき輝き、私の見えない目を開いてくださった。あなたはかぐわしい香りを立てられた。私はそれを吸いこんで、あなたをあえぎ求めた。あなたを味わって、私は、いま、あなたに飢えかわいている。あなたは私に触れられた。私はあなたの安らぎのうちに安らごうと今、私の心は燃え立っている。」(告白録第1027章より)

 聖アウグスチヌスは、この心境に至るまでに、あまりにも長い時間がかかったことが、おそすぎた気づきのように述べていますが、しかし、思索しながら探し求める長い月日と苦労があったからこそ、この高みに達したのだと思います。新型コロナウイルス感染症が出現して、私たちの生活様式も、信仰生活も見直しを迫られ、あらためて気づかされる事があるのではないでしょうか。私たちは、キリスト者でありながら、どれほど深くキリストと交わっているのでしょうか。コロナ禍の中でそのことを見直す機会が与えられたと考える人は多いと思います。永遠の命に関わることについては、どんなに遅い気づきであっても、遅過ぎることはないのです。

わたしたちが日々主イエスに祈る時、イエスとの対話がもう始まっています。コロナと共に生きる時代に入ったからこそ、主イエスとの対話を深めることが、私たちに最も必要としていることだと思います。私たちの交わりは、どんなに愛し合っている者であっても理解し得ない部分が残るのです。心の深みまで入り込めない部分があるのです。入り込んで欲しいと願っても入り込めません。しかし、主イエスはその深みまで入り込み、癒し、渇いた魂を潤してくださるのです。信仰に生きる人とは、その深い交わりを神とも人ともしたいと願う人だと思います。この交わりにこそ、真の平安と魂の安らぎを得るのだと思います。