「教会だより」巻頭言 5月号


復活節だからこそ

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 復活節は聖霊降臨の主日まで続きます。信仰の核心は復活であり、復活の信仰を思うことは主の十字架を思うことです。聖パウロは「わたしの愛する人たち、いつも(神に)・・・従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」と記しています。(フィリピ2:12-13)

 キリストが与えてくれた私たちの信仰は喜びと確信に満ちたものです。聖書には「恐れおののく」という言葉がよく使われています。これは畏れ敬い、大切にするという意味です。キリストによって与えられた救いを、ただ漫然と受け止めるのではなく、感謝の思いで受け止めて、畏れ敬い大切にする事です。

 信仰を得た恵みを当たりまえのように感じて既に自分が救われている事実を感動もしなければ喜ぶ事もなく信仰生活をしているなら、考え直さなければなりません。キリストはこの私を救うために、尊い命を十字架上で投げ出してくださったのだと心の底から思うことができる人は、与えられた救いの重さ、尊さに、畏れおののくでしょう。自分の信仰に喜びや感動がないのは、十字架のキリストを見上げる事をしないからではないでしょうか。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)真摯に十字架を見つめることによって、私たちは自分の信仰生活のあるべき姿を取り戻し、喜びと畏れと感動の生活へと次第に変えられてゆくのだと思います。

 復活節の時だからこそ、主の十字架を思い巡らす時なのです。「自分の救いを達成するように努めなさい」というパウロの言葉は、信仰を自分の努力で作り上げなさいという事ではありません。そもそもパウロは、既に救われたキリスト者にこの手紙を書いているのです。十字架の救いを受けて、キリストに属する者となった人がキリスト者ですから、自分の努力で救いを作り出したのではありません。救いの全てが、神さまの側でなされて、それが与えられたものです。自分の救いを達成することとは御言葉に従順であるという事です。主イエスは、その事を色々な譬えで教えておられます。その一つに、種まきの譬えがあります。私たちが信仰をもって大切にし、御言葉に聞き従う、御言葉の求める事を実行する、そうするなら必ず良い結果を得るでしょう。

 神は大いなる力を注いで私たちを愛し「あなたは私の子である。私はあなたの神である」と語られています。そして神は偉大な力で私たちに、神に願う心、神の御心に従う心を起こし、それを行う力も与えて下さるのです。神は、私たちを闇と死の中から完全に復活させてくださるのです。