「教会だより」の巻頭言 7月号

唐津城と西の浜海岸

信仰の決断

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

子供のころ命拾いしたことがあります。夏休みに、郷里の宮崎県都城市にある「関ノ尾の滝」へ兄弟三人で出かけ、滝の上流の川原で遊んでいました。そこは大きな岩が沢山ある川原でした。山のほうから流れて来る澄んだ水は滝となって滝壺に落ちるのです。上流の川原にある岩と岩との間は、水が滝の方に向かってとうとうと流れています。

 私たちは岩から岩へとぴょんぴょん跳ねて、はしゃぎ回っていました。その時、私が乗っていた岩に兄が飛び乗ってきたのです。すると体の小さい私ははじき出されて川に落ちてしまいました。そして流され始めたのです。その様子を遠くで見ていたもう一人の兄がすぐ下流のほうへ回って待ち受けて、私を助けてくれました。その兄がいなかったら、私は流れの速い川に押し流されて滝壺に落ちていたかもしれません。

  ところで山歩きをしていて、小さな谷川に出くわしたとします。濡れないように渡ろうとするならどうするでしょうか。もし浅瀬なら、飛び石となるような大きな石をいくつか見つけて川に投げ、その石の上に跳び移り、川を渡るでしょう。私たちの信仰生活もおなじではないでしょうか。なぜなら、信仰は、神の御旨を求めて、決断しながら歩んでゆくものだからです。一つ一つの決断は、私たちの人生の旅路に立ちはだかる谷川に投げ込む飛び石のようなものといえないでしょうか。

 神の存在を信じることは、理論的に分かるということより、自分の生き方の決断だと言えます。神の存在を信じるならば、実は、それは自分と切り離して考えられることではなく、自分の生き方を変えることを意味します。学問ならば、自分と関係なく神の存在を論じてもいいでしょう。しかし、信仰は学問と違って、自分が問われているのです。ですから神を信じることは、神を中心にした生き方の決断です。

この世という川原を渡るのに、一つ一つ確かめて、飛び石を川中に置きながら渡れば、川に流されることも、ずぶ濡れになることもないでしょう。

  聖アウグスティヌスは若いころさまざまな精神的遍歴をした後「私の心は神のうちに憩うまでは安らぎを得ない」と「告白録」の中で述べています。若いころは神以外のところに向かって生きようと試み、挫折感を味わったのでしょう。迷った後に、神に立ち返り、この心境に至ったのだと思います。

もともと人間は神に造られ、神に向かうように、その憧れを心に植えつけられているのです。聖アウグスティヌスは、神に向かう信仰の決断をして、本当の心の平安と喜びを得たのでしょう。