「教会だより」の巻頭言 7月号


時の流れと永遠
 
  聖書は時について述べていますが、時間的意味を越えて宗教性を帯びた表現がしばしば出てきます。例えば「主の訪れの時」、「定めの時が来た」という場合の「時」は歴史的時の流れの範畴では理解できない事柄です。

 創世記に「初めに,神が天と地を創造した」とありますが、この世界の万物は「時」の中で創造されたのではなく,永遠という次元の中で「時」とともに宇宙万物を神が創造され、しかも「時」も「被造物」も、初めと終わりがある存在として造られたと教えているのです。つまり、時の流れも神によって創造され、支配されているのです。

 例えば聖書に「時が満ち,神の国は近づいた」と述べて、福音宣教が開始されたとあります。この「時」も神の救いの業との関連で述べる宗教的な表現です。時の流れを超えた概念で表した「時」です。永遠の次元の中で時を生きる、全く新しい時代の到来を告げるものでした。キリストの到来は「時の流れ」が永遠の次元の中に包含されていることを意味する出来事だったと言えます。

 このことに目覚めた者は「時の流れ」の中で生活をしながら「永遠の次元」を生きるのです。この目覚めに生きた聖パウロは特にイエス・キリストの贖いによって「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)であることを強調しています。これは「永遠の今を生きる」と言い換えることができるでしょう。

 「時」の創造者である神ご自身が「時」の流れの中で私たちと共に住むという驚くべき約束をされたのです。聖書が示す「時」を思い巡らしていると、さまざまな考えが私たちの胸のうちを去来します。「時」が、あるときは慰めであったり、あるときは悲しみであったり、喜びであったり、苦しみであったりします。いつかは全て過ぎ去る「時」ですが、「新しい時代」の中に生きる者は、「時」を最大限に生きながら、同時に「永遠の次元」を生きる者として主を仰ぎ見て主と共に生きるのです。

 「永遠」の前では人間の一生は一瞬のごとく、宇宙万物の中では人間はちっぽけな被造物の一つにすぎず、全知全能で聖なる神のみ前では人間は無知蒙昧な罪人にすぎません。また、主と共に生きる者は、聖パウロが述べているように「貧しいようでいて多くの人を富ませ,何も持っていないようですべての物を所有しているのです」(Ⅱコリント6:10)

 主に召され、主と共に生きる私たちは、時の流れの中で、どんな試練や苦しみが襲っても、パウロの言う「今は恵みの時、今は救いの日」という思いを日々深めたいものです。