「教会だより」巻頭言 4月号


 太陽光の暖かさ

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

春のひざしに照らされて、自然界は新しい命が息づき、美しさと生き生きとした喜びに溢れているというのに、先月、鳥栖市で人の心を震撼させる尊属殺人事件が起きました。しかし、このような悲しい事件はどこでも起こりえます。愛し合うことの難しさのあまり、現代社会にあっては「愛」という言葉もいろいろと使い古されて、軽々しい意味しか持たなくなったような気がします。

 ある家庭での話ですが、娘が言ったそうです「愛はいらない。親切がほしい。」と。本当はどんな人でも「愛」が欲しいのに、うわべだけの愛に傷つくことがあまりにも多いのでしょう。このように言いたくなる気持ちがわかります。

 愛犬、「愛」の世話に余念がない奥様の話しですが、買い物へ行った先から電話で「寒いから愛ちゃんのために、ストーブをつけておいてね」と頼みごと。電話に出たご主人が「俺だって寒いんだよ」とガチャンと切ってしまったとか。なんだかどこにでもありそうな家庭での対話。体だけでなく、心も寒さを感じさせる笑い話です。

そんな時、ぽかぽかと暖めてくれる太陽の光のようなぬくもりが恋しくなります。近年、太陽光を利用した科学技術が発達し、私たちは太陽に多大な恩恵を受けています。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」(Mt 5:45)とキリストは言いました。

 太陽は何者をも差別をしません。強制もしません。いやなら光を遮る窓を閉めればよいのです。太陽は代償を求めません。感謝されようとされまいと与え続けます。それでいて決して尽きることがありません。少なくなったから減らしましょうということもありません。いつも惜しみなく豊かに光を注いでくれます。太陽光は活用によってはさらに大きな実りをもたらす無限の可能性を秘めています。

 このように思い巡らすと太陽の光は、父なる神の温かい心のようであり、また、この世を照らす光としてこられたキリストのいつくしみ深い愛を思い起こさせてくれます。いつの日も変わることなく豊かに注がれる主の恵みを思わずにおれません。そしてこの恵みによって人間の心は温められ、不信と利己心という分厚いコートで身を固めていた人間を回心させ、ついにそのコートを脱がせ、神と人とを信じる者にすることもできるのです。 

 復活を信じられないと頑なになっていたトマスにイエスが「信じない者でなく、信じる者になりなさい。」と言われて、信じる恵みを与えてくださったように、私たちも、復活を信じる者、復活の信仰を生きる者に変えていただきましょう。