![]() |
| アガパンサスの花 |
わたしの荷は軽い
カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28-30節)
佐賀地区の信徒の皆さんは今年も不動山ふれあい体育館で、殉教者たちを顕彰するミサに参加し、命を捧げた先達たちの苦しみを思い、祈りを捧げました。
殉教者たちは、棄教する機会はいつでもあったはずなのに、そうせずに信仰を貫いたことは、命より大切なものとして信仰を抱いていたのです。そして迫害を逃れ、身を隠してでも生きようとされたことは、自分の思いや願いではなく、神の思いである神の御旨に自分のすべてをゆだねて、最後まで自分の命を大切に生き抜いた人々です。
恵まれた今日の私たちの社会では殉教ということは起こりえないかもしれません。しかし自分の思いではなく、神の御旨に生きるために、必要があれば生命を賭してでもその生き方を貫抜こうとすることが、私たち信仰者は求められていることは、昔も今も変わりありません。
ところが私たちは、神の御旨、神の思いがよくわからない、何となく感じていても保身や利己心のために、神の御旨に反するこの世的価値観や生き方に流れてしまいがちです。豊かで平和であればこそ真心から神に従うことが難しいのです。信仰の自由が保証されている時代であっても、その意味で私たちは重荷を背負わされて生きているようなものです。信仰の恵みを頂いていても、この大きな恵みを受け止めきれずに、逆に重荷になっている人さえいるのです。
仕事や看病に疲れ、そして人間関係の難しさに押し潰されそうになっている人もいます。人間的な弱さや限界、自分のことで精一杯であり、他人の重荷、苦しみなど気付くゆとりのない現実の生活を省みるとき上記のキリストの言葉は、そう易々と誰でも言えるものではありません。
キリストの生き方は、無制限に、無差別に、十字架上の死に至るまで自分を与え続け、私たちへの深い理解、利己心のない愛を注いでくださったのです。そして今も私たちを支え、育て御自身の命を与え続けておられるのです。私たちは自分の弱さ、ちっぽけな存在であることを知れば知るほど、イエスの言葉が、どんなにか重みがあり、慈悲深い言葉として響きます。その生き方の源泉は、私たちに対する溢れるほどの愛、慈しみでした。キリストが私たちにとって、魂の安らぎと癒やしになって下さいますように。
私たちが、苦しみ悩む時、キリストのうちに本当の安らぎと平安を得ることが出来ますように。そして、今日のキリストの言葉が「神が私に与えてくださった荷は、本当に軽い」と心から思えるようになりたいものです。





