環境芸術の森(唐津市) |
死者との再会
カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
死者の月を迎えました。近しい人を亡くすと、誰でも自分の死を思い、いつの日か再会できることを希望します。死者の月に今年から納骨室に納骨されている方々だけでなく、各家庭の死者を弔うための「合同慰霊ミサ」をします。
私たちはこの世を超えた世界を具体的に知りませんが、キリストの言葉を通して想像します。そこがどんな所か解りませんが、必ず再会すると信じています。その日を迎えるには、譬えると、あたかも幼虫が脱皮を繰り返しながら、最後は羽化して成虫になって大空に飛んでゆくように、私たち自身が質的な変化を遂げながらその日を迎えなければならないようなものです。
キリストの譬えでは「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」と言われました。これまでのものとは質的に完全に異なる、新しい次元に属するものであるということです。自分が主の新しいぶどう酒を入れる新しい革袋となるためには、一度徹底的に古い皮袋である自分が引き裂かれる必要があるのです。古い革袋のままで安住することはできません。主ご自身が十字架の上で肉を裂かれ血を流されたように、私たち自身も「引き裂かれる」こと、苦しみに与り、古い自分がキリストと共に葬られなければなりません。
「あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:12)
主は新しいぶどう酒を満たすことができるように、古い革袋を新しい革袋へと私たちを再創造してくださいます。それが私たちの復活です。そのことは既に私たちのうちに始まっているのです。つまり、幼虫の譬えでいうと、私たちは、既に脱皮を始めているのです。やがて天国へ飛び立てる羽が生えるでしょう。
アメリカ合衆国の先住民族の言葉に「今日は死ぬのにはもってこいの日だ(Today is a good day to die)」というのがあるそうです。この言葉にならって、「今日はキリストにおいて死ぬのにはもってこいの日だ。そしてキリストにおいて復活するのにもってこいの日だ」という思いで信仰の道を歩みたいものです。
私たちは死者との再会を希望しますが、そもそも自分は、あの愛する人と本当に再会できるのだろうかという不安がつきまとうかもしれません。或いは逆に、あの人とだけは再会したくないという人がいるかもしれません。だとすれば、今から和解しておきましょう。
死者のことを思い、死者のために祈ることは、自分のためにも祈ることになるのです。主の死と復活を生きる私たちが、新しい革袋にされて、新しい命を生きる者となれるように、共に祈りましょう。