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デュランタ(ハママツリ) |
信仰者にとって「今まで神はどのように私に関わってくださったのだろう」と自問し、神を思い巡らすことは意味深いことです。神の計らいの神秘へと分け入り、自分の信仰を見つめ直すことになるからです。「神はおられ、私を救う意志を持っておられる」ということを信じていることは不思議でなりません。
信仰がなくても神は天地の創造主であると認める哲学者はいるでしょう。さらに神は歴史の支配者であると認める歴史学者もいるでしょう。しかし「神はわたしたちを救う意志をもっておられる方である」とまで信じることができたのは何故でしょうか。
聖パウロは「神の意志に基づいた計画」(エフェソ1:11)であり、神は人間を救う計画を持っておられる。それは人間の理解を超えた「神の秘義」(同1:9)であると言っています。
私たちはこの秘義を信じる恵みを得たのであって理解できたわけではないのです。だから、それは理性の次元から信仰の次元への飛躍です。
ルカ福音書に、シメオンとアンナという二人の老人の話があります。二人は長年、イスラエルが救われるのを待ち望んでいました。時満ちて幼子イエスが誕生し、神殿に奉献されたとき、喜びで満たされたのです。救いの希望を抱かせてくださったのは、聖霊によったとあります。「メシアが来られ、救ってくださる。神はそのようにわたしたちを救う意志をもっておられる方である」と信じることは人生の体験や知恵から出たものではなく、信じさせてくださった神の恵みによるものです。
女預言者アンナの人生は、その大半が希望しながら待つことでした。若いころ嫁いだとありますが、多分当時の慣習からすれば、10歳台に結婚したのでしょう。7年間の夫婦生活の後、夫に先立たれて寡婦になり、すでに84歳になっていました。神殿を離れず、昼も夜も祈りのうちに神に仕えていたと書かれています。多分60年近く、この希望を抱き続けていたのです。そしてついにその希望が実現し、幼子メシアを自分の胸に抱くことができたのです。シメオン老人も幼子を抱いて神をたたえて賛美しました。その時の「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)は、世によく知られています。
さらに不思議なのは、彼らが幼子と母の将来について預言していることです。この世での幼子の人生は今始まったばかり、二人の老人はもう、人生を終わろうとしていました。幼子と母はこれから果たさなければならない大きな使命が待ち受けていました。どうして彼らは幼子の将来のことを知りえたのでしょうか。
二人の老人は、幼子と母の将来を案じつつも、長い間待ち望んでいたことがついに実現し、喜びで満たされたのです。忍耐強く待っていた日々は意味のあるものとなりました。もうこれ以上の望みはありえない、安心してこの世を去ることができると思えたのでしょう。
この神秘的で美しい出会いに学びながら、私たちにも、信仰のうちに待ち望んでいることは必ず実現すると信じる恵みに感謝しましょう。