「教会だより」の巻頭言 11月号

アガパンサスの花

 

わたしの荷は軽い


カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書1128-30節)

 

佐賀地区の信徒の皆さんは今年も不動山ふれあい体育館で、殉教者たちを顕彰するミサに参加し、命を捧げた先達たちの苦しみを思い、祈りを捧げました。

殉教者たちは、棄教する機会はいつでもあったはずなのに、そうせずに信仰を貫いたことは、命より大切なものとして信仰を抱いていたのです。そして迫害を逃れ、身を隠してでも生きようとされたことは、自分の思いや願いではなく、神の思いである神の御旨に自分のすべてをゆだねて、最後まで自分の命を大切に生き抜いた人々です。

 

恵まれた今日の私たちの社会では殉教ということは起こりえないかもしれません。しかし自分の思いではなく、神の御旨に生きるために、必要があれば生命を賭してでもその生き方を貫抜こうとすることが、私たち信仰者は求められていることは、昔も今も変わりありません。

 

ところが私たちは、神の御旨、神の思いがよくわからない、何となく感じていても保身や利己心のために、神の御旨に反するこの世的価値観や生き方に流れてしまいがちです。豊かで平和であればこそ真心から神に従うことが難しいのです。信仰の自由が保証されている時代であっても、その意味で私たちは重荷を背負わされて生きているようなものです。信仰の恵みを頂いていても、この大きな恵みを受け止めきれずに、逆に重荷になっている人さえいるのです。

 

仕事や看病に疲れ、そして人間関係の難しさに押し潰されそうになっている人もいます。人間的な弱さや限界、自分のことで精一杯であり、他人の重荷、苦しみなど気付くゆとりのない現実の生活を省みるとき上記のキリストの言葉は、そう易々と誰でも言えるものではありません。

 

キリストの生き方は、無制限に、無差別に、十字架上の死に至るまで自分を与え続け、私たちへの深い理解、利己心のない愛を注いでくださったのです。そして今も私たちを支え、育て御自身の命を与え続けておられるのです。私たちは自分の弱さ、ちっぽけな存在であることを知れば知るほど、イエスの言葉が、どんなにか重みがあり、慈悲深い言葉として響きます。その生き方の源泉は、私たちに対する溢れるほどの愛、慈しみでした。キリストが私たちにとって、魂の安らぎと癒やしになって下さいますように。

 

私たちが、苦しみ悩む時、キリストのうちに本当の安らぎと平安を得ることが出来ますように。そして、今日のキリストの言葉が「神が私に与えてくださった荷は、本当に軽い」と心から思えるようになりたいものです。


「教会だより」の巻頭言 10月号

 


神の富と知恵と知識のなんと深いことか

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

現代社会のデジタル化の進歩は一段と加速しているように思われます。パソコンやスマホなど次々とデジタル製品が出てきています。更にコロナ禍を経験した世界は、デジタル化を一層加速させています。世界で起きているこの現象に遅れをとるまいと政府は「デジタル庁」を発足させ、デジタル変革へと日本社会も進んでいます。これは企業がビジネス環境を、デジタル技術を活用して、ビジネスモデルを変革、さらに組織、企業文化・風土まで変革し、豊かな社会にしようとすることです。この時代変化について行けない人、置き去りにされそうで不安になっている人は多いと思います。 

先月、敬老の日がありましたが、お隣の幼稚園では、祖父母会という集いがあり、園児の祖父母たちに神さまの祝福を授けるために私は呼ばれました。デジタル音痴のお年寄りが孫に尋ねる面白い川柳があります。

「デジカメの エサはなんだと 孫に聞く」

0年くらい前までは、フィルムを入れて撮影するアナログ式のカメラが多かったのに、現在ではデジタルカメラに置き換わって、フィルムは使わなくなりました。

あらゆることをデジタル化することで、便利で、快適な生活になりますが、同時に、システムの不具合による大規模災害、デジタル機器を用いた犯罪、予想もしていなかった人の心を蝕む社会現象など起きる可能性を孕んでいるのです。

とはいえ、科学の進歩は生活を便利にしますし、だれも豊かで快適な生活の追求を止めることはできません。ますますデジタル化する現代社会を生きる私達は、本当に大切なものは何なのか、本当に幸せな生き方と人生とは何なのか、見極めることが必要です。目に見えるものは全て移ろいゆき、過ぎ去るのです。本当に大切なものは、目に見えないものです。どんなに科学が発達してデジタル化が進んでも、目に見えない真実のものを見失うことがあってはなりません。

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(Rom11:33

 天文学が発達すればするほど、宇宙の広がりとその神秘が深まるように、科学が進歩すればするほど、創造主である神の知恵と偉大さを思わずにおれません。

山奥で暮らす、田中源蔵さんは、元気いっぱいのご隠居。デジタル化社会をものともせず、生きています。趣味は囲炉裏で焼き芋。

ある日、町内会の若者が健康を気遣い源蔵さんの家にやってきた。

「源蔵さん、お元気にしていらっしゃいますか。

スマホでも健康管理できますよ!」すると源蔵さんはせせら笑いして「ワシは毎朝、味噌汁の具で体調を占っとる。豆腐が沈んだら休養日じゃ。」

 源蔵さんのようにデジタル化に惑わされずに生きる人は、神さまだけに頼る心がおのずと湧いてくるのかもしれません。


「教会だより」の巻頭言 9月号

 

あなたは神のことを思わず、

           人間のことを思っている(マルコ8:33)


カトリック唐津教会 主任司祭   江夏國彦

地球温暖化の影響で、猛暑と豪雨による災害が度々起きています。自然災害による苦しみだけではありません。これほど科学文明が発達し、物質的に豊かな社会になっても人間の苦しみは何時の時代もなくなることはないでしょう。苦しみは、人生にいつもつきまとう問題です。それをどう受け止め、どのように乗り越えるのか、その人の生き方 にかかっています。

イエス・キリストが、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められたとき、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。その時イエスがペトロに言われた言葉が今月の巻頭言のタイトル「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」です。(マルコ833

キリストの招きに答えて、弟子となり、寝起きをともにしていたペトロでしたが、この頃のペトロはまだ、キリストをよく理解できていませんでした。キリストは救い主と信じていましたが、この世の政治的な偉大な指導者としてのメシア(救い主)理解でした。だから主が、苦難を乗り越えた後の喜びに入られることも、十字架を通して復活されることも知る由もなかったのです。

しかし、ずっと後、復活されたキリストに出会って、初めてメシア理解、キリスト理解ができました。その時の喜びと驚きと感動は、その後のペトロの人生を根本的に変えてしまったのです。

生き方も価値観も、そしてこの世での苦しみについての考え方も新しくされ、その視点からキリストを思う時、深い感謝と主の愛に応えたい思いは、殉教も厭わないほどに愛の炎がペトロの心に燃え盛ったのでしょう。

主がそうであったように、信仰者にとっても苦しみを乗り越えた後に約束された栄光があるということは変わらないのです。主は、十字架上の死から復活へと通じる道を開いてくださったのです。

苦しみと喜びは大海で繰り返される波のように考えているのではありません。また、偶然苦しみが喜びに変わったり、喜びが苦しみ変わったりする出来事として考えているのでもありません。苦しみを復活と関連付けて意味があるものと考えているのです。

キリストの示された道は、苦しみ無しにあり得ない喜びへの道であり、自分に死ぬことなしに、新しい命へ至ることはできない道なのです。

 しかし、苦しみの中にある時にもすでに喜びを見出せる道でもあります。何故なら、どのような苦難も、すでに復活の勝利を得たかのような確信と希望を持って主の愛に応えようとする信仰者は、苦しみの中に喜びを見い出しているからです。

聖アウグスティヌスは、次のように言いました。「愛は、最も困難なこと、最も苦しいことを、全く負いやすく、その重荷を無にします。」

だから、たとえ苦悩の淵にあっても、苦しみから抜け出せないかのように思われても、すでに永遠の命と喜びを得たかのように生きることができるのです。

 


「教会だより」の巻頭言 8月号

 

デュランタ(ハママツリ)

神のはからいの不思議

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

信仰者にとって「今まで神はどのように私に関わってくださったのだろう」と自問し、神を思い巡らすことは意味深いことです。神の計らいの神秘へと分け入り、自分の信仰を見つめ直すことになるからです。「神はおられ、私を救う意志を持っておられる」ということを信じていることは不思議でなりません。

信仰がなくても神は天地の創造主であると認める哲学者はいるでしょう。さらに神は歴史の支配者であると認める歴史学者もいるでしょう。しかし「神はわたしたちを救う意志をもっておられる方である」とまで信じることができたのは何故でしょうか。

聖パウロは「神の意志に基づいた計画」(エフェソ111)であり、神は人間を救う計画を持っておられる。それは人間の理解を超えた「神の秘義」(同1:9)であると言っています。

私たちはこの秘義を信じる恵みを得たのであって理解できたわけではないのです。だから、それは理性の次元から信仰の次元への飛躍です。

ルカ福音書に、シメオンとアンナという二人の老人の話があります。二人は長年、イスラエルが救われるのを待ち望んでいました。時満ちて幼子イエスが誕生し、神殿に奉献されたとき、喜びで満たされたのです。救いの希望を抱かせてくださったのは、聖霊によったとあります。「メシアが来られ、救ってくださる。神はそのようにわたしたちを救う意志をもっておられる方である」と信じることは人生の体験や知恵から出たものではなく、信じさせてくださった神の恵みによるものです。

女預言者アンナの人生は、その大半が希望しながら待つことでした。若いころ嫁いだとありますが、多分当時の慣習からすれば、10歳台に結婚したのでしょう。7年間の夫婦生活の後、夫に先立たれて寡婦になり、すでに84歳になっていました。神殿を離れず、昼も夜も祈りのうちに神に仕えていたと書かれています。多分60年近く、この希望を抱き続けていたのです。そしてついにその希望が実現し、幼子メシアを自分の胸に抱くことができたのです。シメオン老人も幼子を抱いて神をたたえて賛美しました。その時の「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)は、世によく知られています。 

さらに不思議なのは、彼らが幼子と母の将来について預言していることです。この世での幼子の人生は今始まったばかり、二人の老人はもう、人生を終わろうとしていました。幼子と母はこれから果たさなければならない大きな使命が待ち受けていました。どうして彼らは幼子の将来のことを知りえたのでしょうか。  

二人の老人は、幼子と母の将来を案じつつも、長い間待ち望んでいたことがついに実現し、喜びで満たされたのです。忍耐強く待っていた日々は意味のあるものとなりました。もうこれ以上の望みはありえない、安心してこの世を去ることができると思えたのでしょう。

この神秘的で美しい出会いに学びながら、私たちにも、信仰のうちに待ち望んでいることは必ず実現すると信じる恵みに感謝しましょう。


「教会だより」の巻頭言 7月号

キンシバイ(金糸梅)


老いてますます盛ん

主任司祭 江夏國彦

団塊の世代と言われる人々が、後期高齢者になっている日本は、一段と高齢化が進んでいます。自分の老いを前にして思うのですが、老いてこそ心得るべき事があるのではないでしょうか。

聖パウロはテサロニケの信徒に向けて「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです (Ⅰテサロニケ516-18)と言っています。この言葉から考えたのですが、自戒の念を込めて次の3つの心得は大事ではないかと思います。

心得1。がくれき:今日まで長生きできたことを感謝し、今まで受けた多くの恵みを忘れずにいることで自然と喜びが湧いてきます。楽しい思い出の歴史ですから漢字では学歴ではなく「樂歴」と覚えます。

 心得2.きょうよう:外出がおっくうになりがちな高齢者は、なるだけ毎日、外出する計画を立てましょう。用がなく、人と交わらす、外の美しい自然も見ない日がないように心掛けましょう。漢字で教養ではなく「今日用」と書きます。

心得3.あいいく:誰かに会う計画を立て、出てゆき、会って交わりましょう。できなければ、電話でもメールでも交われます。これを漢字で愛育ではなく「会行」と記憶してください。

 上記の聖パウロの言葉「いつも喜んでいなさい」は、私たちが神から受けた恵みは、どれほどのものであり、これから受ける事になっている恵みは、いかに偉大なものであるか考えたら喜ばずにおれないという意味でしょう。だから本来、キリスト者はいつも喜びで満たされているはずです。他人から「どうしてあなたは、いつもそんなに嬉しそうにしているのですか。」と言われるぐらいになりたいものです。それは、心得1「がくれき」の真髄かもしれません。

 そして「絶えず祈りなさい。」と言っています。祈りは、主イエス・キリストとの対話です。祈れば、主は何をなすべきか教えてくださるでしょう。その日の用事は祈りから生まれます。何もする用がないなら、祈りが足りないのかもしれません。「きょうよう」がない?

 さらに、聖パウロは言います。「どんなことにも感謝しなさい」と。何故なら、どんなことも全知全能の神のみ旨の中で起きるのですから。全ての出来事には意味があるのです。後になって恵みであったと思える時が来るに違いありません。主は、人々との交わりを通して、私たちを愛し、育てておられます。だから、心得3「あいいく」は大切です。すなわち、何時でも、どこでも、事あるごとに、人に会いに行き、交われば、更に豊かな恵みを受けて、どんなことにも感謝することができるでしょう。

高齢者は社会との交わりの広さは限られ、小さくなるでしょうが、しかし人生経験者として、信仰者として、交わりの質を高める事ができるのです。神の愛を伝える交わりの共同体へと成長できますように。


「教会だより」の巻頭言 6月号

オウゴンマサキ(黄金柾)

クマさんの食前の祈り

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

雨季も終わりが近づき、新緑の輝きが益々増してきました。里山を散策したり、山菜採りに行ったりする機会があるかもしれません。自然の中には、いろいろな動物も暮らしています。突然、日頃見かけない動物に出くわすかもしれません。

「クマさんの食前の祈り」という笑い話があります。ある人が森でクマとバッタリ出会ってしまいました。こんな場合すぐ逃げないで、クマから目を離なさないほうが良いと聞いていたので、その人はクマの目をじっとにらみつけていました。すると、クマはうつむいて、目をつむってしまいました。その人は安心して見ていると、しばらくしてからクマが再び頭を上げて言いました。「最期の祈りは済んだかい?こっちは食前の祈りが終わったぞ。」

 

この世の中は何が起こるかわからない危険に満ちた世界、変化が早くて錯覚に陥りやすい世界、将来の見通しが立たない世界。私たちは今、そういう世界に生きています。動揺したり、不安を感じたりすることがあるでしょう。しかし、毎日のように報道されるウクライナ情勢とガザ地区の惨状に、私たちの感覚は麻痺してしまいそうです。世界情勢がいかに危険に満ちた状況であるかを感じなくなっているのではないでしょうか。

 

トランプ大統領の依頼もあり、レオ14世教皇は、ヴァチカンがウクライナ紛争の和平交渉の仲介役をする用意があると表明されたが、ロシアが反対していてヴァチカンでの協議は実現しそうにもありません。しかし、最近のヴァチカンは人道的な取り組みとして、捕虜交換の仲介役を果たしました。和平交渉を通じてウクライナとロシアが約800人の捕虜を交換しました。

一方、紛争は今も続いており、毎日多くの犠牲者が出ている現実を思うと、心が痛みます。もしこの様な紛争が世界の各地で続けば、最悪の場合は、どこかの地で核戦争になり、想像できないほどの悲惨な世界になるでしょう。戦争は、人間の仕業です。人間に責任があり、人間はその結果を身に受けるのです。責任が私たち一人一人にかかっているのです。

 

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(Ⅱコリント110

きのうも今日も、そしてこれからも変わらない永遠の愛と命をもっておられる神に希望をかけて生きる人は幸いです。

 しかし、もしかしたら私たちが、のんきに口先だけで平和を願う祈りをしていると、笑い話のあのクマさんが、近くで食前の祈りをしているかもしれません。

 

 軍事力でも外交力でも経済的圧力をかけても、うまくゆかない情勢の中で、各国の首脳の中に、少しでも宗教的な力に期待してみようとする動きがあることは良いことです。

 私たちも人間の知恵と力を超えた、神の力が私たちの想像を超えた方法で働き、平和へ向かうように、教皇と共に心を込めて祈りましょう。

 


「教会だより」の巻頭言 5月号

 
聖マリア像の前のクリーピングタイムの花

聖母月に聖ヨゼフを思う

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

今年もまた、聖母月が巡って来ました。毎年この月になるとカトリック教会は聖母マリアについて話され、また褒め称え、祈りを捧げます。

中世のある詩人は「聖母は耳によって、そして心によって、次に肉体によって神の言葉を受けた。」と言いました。乙女マリアは、天使のお告げを耳で聞いて、驚き、畏れました。しかし、彼女の信仰が彼女の心にその言葉を受け入れる力と勇気を与えてくれたのです。そしてお告げの御言葉は彼女の胎内で実現しました。このように、耳で、心で、体で、「お言葉通りになりますように」と受け入れたのです。

ところで、神さまの計画は乙女マリアの協力だけでは全うされないものでした。義人ヨゼフの協力も必要でした。義人ヨゼフも乙女マリアと同様にお告げを受けた時の彼の驚きと畏れ、そして乙女マリアのことを心配したことを聖ルカ福音記者は書き留めています。

 神と乙女マリア、神と義人ヨゼフ、この二人の神さまとの「人類の救いに関する最初の対話」は、いとも清らかで、美しく、神秘的な出来事であったと想像します。昔からこの場面は絵になり、詩になり、音楽になり、様々な形で多くの人々が想像し、思い巡らして芸術作品が生まれました。

ところで、乙女マリアと義人ヨゼフが、この「人類の救いに関する最初の対話」はどうだったのでしょうか。人間同士の最初の対話は、どのように進められたのか想像するのは興味深いことです。

イエズス会士であったヘルマン・ホイヴェルス神父は次のような言葉を残しています。「聖ヨセフと聖マリアは苦しみによって却って強い絆で結ばれた。その事によって一生涯、花婿と花嫁の愛を持ち続けた。聖ヨセフが天使のお告げを聞いて聖マリアを引き取った時の会話を聞いてみたいものです。」  確かに、私たちはヨゼフの立場になって思い巡らす時、様々な思いがよぎります。人類の救い主の母となる方であること、聖霊によって神の子を身籠ることの神秘さ、自分もマリアと共に神の救いの業に協力させて頂く誉れと喜び、救い主の守護者となることへの責任の重さからくる不安、これから後に待ち受けている苦労と困難が予想されること、様々なことをヨゼフは心に抱きながら、乙女マリアと交わした会話。ヨゼフはきっとマリアしかできない役割について考え、それに協力すること、そして自分にしかできない役割は何なのか、何よりも神の御旨に叶うように一致協力することを願う心でマリアを引き受ける旨を告げたのでしょう。

それは何時、どこで、実際どんなことを話したのでしょうか。この「大いなる最初の対話」の内容は誰も知る由もありません。人類史上最も神聖で崇高な対話であっただろうと思われます。義人ヨゼフの立場から思いを巡らすことによって、神に選ばれた乙女マリアへの畏敬の念がますます深まると同時に、神の業の不思議さ、神の慈しみと、弱い人間への理解を思わずにおれません。神の救いが、信じる全ての人の上に実現しますように。