「教会だより」の巻頭言 7月号

キンシバイ(金糸梅)


老いてますます盛ん

主任司祭 江夏國彦

団塊の世代と言われる人々が、後期高齢者になっている日本は、一段と高齢化が進んでいます。自分の老いを前にして思うのですが、老いてこそ心得るべき事があるのではないでしょうか。

聖パウロはテサロニケの信徒に向けて「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです (Ⅰテサロニケ516-18)と言っています。この言葉から考えたのですが、自戒の念を込めて次の3つの心得は大事ではないかと思います。

心得1。がくれき:今日まで長生きできたことを感謝し、今まで受けた多くの恵みを忘れずにいることで自然と喜びが湧いてきます。楽しい思い出の歴史ですから漢字では学歴ではなく「樂歴」と覚えます。

 心得2.きょうよう:外出がおっくうになりがちな高齢者は、なるだけ毎日、外出する計画を立てましょう。用がなく、人と交わらす、外の美しい自然も見ない日がないように心掛けましょう。漢字で教養ではなく「今日用」と書きます。

心得3.あいいく:誰かに会う計画を立て、出てゆき、会って交わりましょう。できなければ、電話でもメールでも交われます。これを漢字で愛育ではなく「会行」と記憶してください。

 上記の聖パウロの言葉「いつも喜んでいなさい」は、私たちが神から受けた恵みは、どれほどのものであり、これから受ける事になっている恵みは、いかに偉大なものであるか考えたら喜ばずにおれないという意味でしょう。だから本来、キリスト者はいつも喜びで満たされているはずです。他人から「どうしてあなたは、いつもそんなに嬉しそうにしているのですか。」と言われるぐらいになりたいものです。それは、心得1「がくれき」の真髄かもしれません。

 そして「絶えず祈りなさい。」と言っています。祈りは、主イエス・キリストとの対話です。祈れば、主は何をなすべきか教えてくださるでしょう。その日の用事は祈りから生まれます。何もする用がないなら、祈りが足りないのかもしれません。「きょうよう」がない?

 さらに、聖パウロは言います。「どんなことにも感謝しなさい」と。何故なら、どんなことも全知全能の神のみ旨の中で起きるのですから。全ての出来事には意味があるのです。後になって恵みであったと思える時が来るに違いありません。主は、人々との交わりを通して、私たちを愛し、育てておられます。だから、心得3「あいいく」は大切です。すなわち、何時でも、どこでも、事あるごとに、人に会いに行き、交われば、更に豊かな恵みを受けて、どんなことにも感謝することができるでしょう。

高齢者は社会との交わりの広さは限られ、小さくなるでしょうが、しかし人生経験者として、信仰者として、交わりの質を高める事ができるのです。神の愛を伝える交わりの共同体へと成長できますように。


「教会だより」の巻頭言 6月号

オウゴンマサキ(黄金柾)

クマさんの食前の祈り

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

雨季も終わりが近づき、新緑の輝きが益々増してきました。里山を散策したり、山菜採りに行ったりする機会があるかもしれません。自然の中には、いろいろな動物も暮らしています。突然、日頃見かけない動物に出くわすかもしれません。

「クマさんの食前の祈り」という笑い話があります。ある人が森でクマとバッタリ出会ってしまいました。こんな場合すぐ逃げないで、クマから目を離なさないほうが良いと聞いていたので、その人はクマの目をじっとにらみつけていました。すると、クマはうつむいて、目をつむってしまいました。その人は安心して見ていると、しばらくしてからクマが再び頭を上げて言いました。「最期の祈りは済んだかい?こっちは食前の祈りが終わったぞ。」

 

この世の中は何が起こるかわからない危険に満ちた世界、変化が早くて錯覚に陥りやすい世界、将来の見通しが立たない世界。私たちは今、そういう世界に生きています。動揺したり、不安を感じたりすることがあるでしょう。しかし、毎日のように報道されるウクライナ情勢とガザ地区の惨状に、私たちの感覚は麻痺してしまいそうです。世界情勢がいかに危険に満ちた状況であるかを感じなくなっているのではないでしょうか。

 

トランプ大統領の依頼もあり、レオ14世教皇は、ヴァチカンがウクライナ紛争の和平交渉の仲介役をする用意があると表明されたが、ロシアが反対していてヴァチカンでの協議は実現しそうにもありません。しかし、最近のヴァチカンは人道的な取り組みとして、捕虜交換の仲介役を果たしました。和平交渉を通じてウクライナとロシアが約800人の捕虜を交換しました。

一方、紛争は今も続いており、毎日多くの犠牲者が出ている現実を思うと、心が痛みます。もしこの様な紛争が世界の各地で続けば、最悪の場合は、どこかの地で核戦争になり、想像できないほどの悲惨な世界になるでしょう。戦争は、人間の仕業です。人間に責任があり、人間はその結果を身に受けるのです。責任が私たち一人一人にかかっているのです。

 

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(Ⅱコリント110

きのうも今日も、そしてこれからも変わらない永遠の愛と命をもっておられる神に希望をかけて生きる人は幸いです。

 しかし、もしかしたら私たちが、のんきに口先だけで平和を願う祈りをしていると、笑い話のあのクマさんが、近くで食前の祈りをしているかもしれません。

 

 軍事力でも外交力でも経済的圧力をかけても、うまくゆかない情勢の中で、各国の首脳の中に、少しでも宗教的な力に期待してみようとする動きがあることは良いことです。

 私たちも人間の知恵と力を超えた、神の力が私たちの想像を超えた方法で働き、平和へ向かうように、教皇と共に心を込めて祈りましょう。

 


「教会だより」の巻頭言 5月号

 
聖マリア像の前のクリーピングタイムの花

聖母月に聖ヨゼフを思う

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

今年もまた、聖母月が巡って来ました。毎年この月になるとカトリック教会は聖母マリアについて話され、また褒め称え、祈りを捧げます。

中世のある詩人は「聖母は耳によって、そして心によって、次に肉体によって神の言葉を受けた。」と言いました。乙女マリアは、天使のお告げを耳で聞いて、驚き、畏れました。しかし、彼女の信仰が彼女の心にその言葉を受け入れる力と勇気を与えてくれたのです。そしてお告げの御言葉は彼女の胎内で実現しました。このように、耳で、心で、体で、「お言葉通りになりますように」と受け入れたのです。

ところで、神さまの計画は乙女マリアの協力だけでは全うされないものでした。義人ヨゼフの協力も必要でした。義人ヨゼフも乙女マリアと同様にお告げを受けた時の彼の驚きと畏れ、そして乙女マリアのことを心配したことを聖ルカ福音記者は書き留めています。

 神と乙女マリア、神と義人ヨゼフ、この二人の神さまとの「人類の救いに関する最初の対話」は、いとも清らかで、美しく、神秘的な出来事であったと想像します。昔からこの場面は絵になり、詩になり、音楽になり、様々な形で多くの人々が想像し、思い巡らして芸術作品が生まれました。

ところで、乙女マリアと義人ヨゼフが、この「人類の救いに関する最初の対話」はどうだったのでしょうか。人間同士の最初の対話は、どのように進められたのか想像するのは興味深いことです。

イエズス会士であったヘルマン・ホイヴェルス神父は次のような言葉を残しています。「聖ヨセフと聖マリアは苦しみによって却って強い絆で結ばれた。その事によって一生涯、花婿と花嫁の愛を持ち続けた。聖ヨセフが天使のお告げを聞いて聖マリアを引き取った時の会話を聞いてみたいものです。」  確かに、私たちはヨゼフの立場になって思い巡らす時、様々な思いがよぎります。人類の救い主の母となる方であること、聖霊によって神の子を身籠ることの神秘さ、自分もマリアと共に神の救いの業に協力させて頂く誉れと喜び、救い主の守護者となることへの責任の重さからくる不安、これから後に待ち受けている苦労と困難が予想されること、様々なことをヨゼフは心に抱きながら、乙女マリアと交わした会話。ヨゼフはきっとマリアしかできない役割について考え、それに協力すること、そして自分にしかできない役割は何なのか、何よりも神の御旨に叶うように一致協力することを願う心でマリアを引き受ける旨を告げたのでしょう。

それは何時、どこで、実際どんなことを話したのでしょうか。この「大いなる最初の対話」の内容は誰も知る由もありません。人類史上最も神聖で崇高な対話であっただろうと思われます。義人ヨゼフの立場から思いを巡らすことによって、神に選ばれた乙女マリアへの畏敬の念がますます深まると同時に、神の業の不思議さ、神の慈しみと、弱い人間への理解を思わずにおれません。神の救いが、信じる全ての人の上に実現しますように。


「教会だより」の巻頭言 4月号



 復活の主は共におられる


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

主の御復活おめでとうございます。

今年、カトリック教会は聖年を迎えています。あらためて信仰の核心である復活の主を思い巡らしたいものです。「わたしの愛する人たち、いつも(神に)従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:12-13)と聖パウロは述べています。「恐れおののきつつ」と表現していますが、信仰を得た恵みを当たりまえのように感じてしまうほど慣れて、この恵みによって既に自分が救われている事実を、もし感動もしなければ、喜ぶ事もなく信仰生活をしているなら、考え直さなければなりません。


キリストは、救うために、尊い命を十字架上で投げ出してくださったのです。この私の為に、苦しみながら死んで行かれたのだ、と心の底から思うことができる人は、与えられた救いの重さ、尊さに、感謝するでしょう。もし自分の信仰に喜びや感動がないのならば、キリストの十字架に現れた神の偉大さに思いが至らないからです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)真摯に十字架を見つめることによって、自分の復活信仰が強められ、信仰生活のあるべき姿を取り戻し、喜びと感動の生活へと変えられてゆくのです。


 救いは、神さまの側でなされ、それが恵みとして与えられたものです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(フィリピ2:13)から、たじろぐことがあってはなりません。主は私たちと共にいて、心に働いてくださり「あなたは私の子である。私はあなたの神である」と言って、主を信頼する者へと導かれます。


 神は、その絶大な力をもって、絶望と死の中からイエス・キリストを復活させた方です。キリストに働いた、その偉大な力を、神は私たちにも働かせて下さいます。キリストによって、神の子とされた私たちに、いつもみ言葉に従う願いを起こさせ、行うための力も与えて下さるのです。


私たちは弱くて、頼りない人間ですが、神が共に居て、変えてくださいます。だから復活を信じる恵みを頂いた私たちは、神の偉大な力を内在する者なのです。神の助けを得て、自分の救いを達成しなければなりません。そのために絶えず与え続けておられる神の力に信頼しましょう。


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 <愚かしい口論>

買い物客が多くて、レジの前には行列ができていた。頬髭をはやした労働者のゼレンスキーという人が、自分の番になり財布からカードを取り出すのに手間取っていると、次の番を待っていたトランプという大金持ちの大男が「お前にはカードが無いだろう、だから現金で早く支払え。」と怒鳴った。すると列の後ろにいた正義感あふれる若者が言った。「失礼な事を言うな。金と権力を盾に人を見下すな。」


「教会だより」の巻頭言 3月号

太閤が睨みし海の霞哉・名護屋城跡・呼子港と玄海灘


聖年は恵みの年


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

聖年を迎えての四旬節の季節になりました。回心して神にたち帰ることは、もう遅いということはありません。誰でも少しばかりの軌道修正のような回心は生涯続ける必要があります。 

旧約聖書の伝道の書に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。泣く時、笑う時。求める時、失う時。黙する時、語る時。愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(伝道3章)

また、ルカによる福音書には次のような譬え話があります。3年もの間、実のならないいちじくを見て、主人は命じます。「こんないちじくは切り倒してしまえ。土地がふさがるだけだ」( ルカ13章)。しかし園丁は頼みます。「もう1年待ってください。来年になったら実がなるかも知れないからです」。こうして主人はもう1年待ちました。神は実を結ぶまで、じっくりと待って下さるのです。神は哀れみ深い方です。

考えさせられる4コマ漫画があります。1コマ目には「子供が楽しく遊んでいる」絵に、一言書かれていました。「若すぎる」。2コマ目「アベックの二人」の絵に「幸せすぎる」。3コマ目「働いている人」の絵に「忙しすぎる」。4コマ目「墓」の絵に「遅すぎた」と書かれていた。

 まだ若いから、今は幸せだから、今は忙しいから。そんなことを言っているうちに人生を終えてしまい、ついに回心することなく墓に入った人の一生を暗示する風刺漫画なのです。 

人間は、自分の立場を守りたい、理解してもらいたい一心で、言ってはならないことを言ってしまったり、自分を正当化しようとして口論になり、相手の心を傷つけたりして、後悔することが多いものです。人間は多かれ少なかれ、人を傷つけて生きています。なかには大変深刻な問題を抱えて、ゆるしてもらいたいけどゆるしてもらえない、ゆるしたいのにゆるせなくて悩ましい思いで生きておられる人も少なくないのです。

そんな弱い私たちのことを最も良く理解しておられる方が、イエスさまです。

「今や恵みの時、今こそ救いの日」(ⅡCor 6:2

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<笑い話>

①.高校1年生がアメリカ留学することになった。ホームステイ先も決まり家族一同、喜んだ。すると英語のわからない祖母は、親戚や近所の人に「うちの孫はアメリカでホームレスするんです」と自慢げに言いふらした。

しかし、みんなへんな顔をして同情した。

②.ある有名な画家の飼い犬が病気になったので、獣医でなく、最も評判の高い医師に往診を頼みに、使いの者を出した。すると名医はメモ書きした紙片を使いの者に渡した。

 窓の雨戸二枚にペンキを塗って頂きたいので、我が家までおいで願います。」

??高名な画家と名医のプライドの衝突??

 


「教会だより」の巻頭言 2月号

 



キリスト教国でない日本のキリスト者は、キリスト教国の人々以上にキリスト者として生きる理由を自問するのではないでしょうか。

遠藤周作は「子供の頃に受けた洗礼とキリスト者として生きることが自分の体に合わない服を着せられているような違和感を覚えていた時期があった。」と証言しています。私たちは、どうしてキリスト者として生きているのか、その確かな理由を胸に秘めているでしょうか。幼児洗礼であろうと大人になってからの洗礼であろうと、確かなものを抱いているかを自分に問う時、誰でも不思議な思いにかられるのではないでしょうか。

この神秘を考える時、使徒たちの召し出し(マルコ1:14-20)の例は、何かのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。

聖書によると、まずキリストが先に彼らを呼び出すことによって弟子になりました。普通は師弟関係ができるとき、弟子になりたい人が先に師に願って弟子にしてもらうのが常ですか、キリスト者としての召命は、いつもキリストが先に呼び出すということです。私たちが選んだのではなく、キリストが私たちを先に選び、呼んだということです。キリスト者は、いつも心の底にキリストが私を呼んでくださったという思いがあるのか問わなければなりません。

しかし、それに応えるためには、悔い改めてキリストに心を向けなければなりません。心を神に向けるという「回心」は一生涯のことであって、生き方が変わることを意味しているのです。単に道徳的に改心して行いを改めることを意味する以上に、全身全霊で「神に立ち帰る」ことです。しかし、回心は始まりであって、弟子たちも長い期間をかけて、回心の道を歩みました。私たちも絶えず回心の道を歩んでいるか問われます。

キリストは弟子たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。イエスの召し出しは、ついて行くことが重要なのです。資質や才能があるから、神は私たちを選んだのではありません。ただ神のみ旨によるのです。キリストの教えは、知識を身につければ解るというようなものではなく、共に生きることによって少しずつ分かってくるものなのです。 最初の弟子たちがそうであったように特別な学問的素養がなくても福音を理解し、信じ得るのです。キリストと共に教会の群れの中で生活することが重要なのです。

キリストが求めるのは、どれほど多くの人に福音を宣べ伝えたかとか、信仰の証しを立てる勇気と力があるかということでもありません。ついて行けば、キリストご自身が導き、育て、使命を与えてくださるのです。

  私たちの使命は「人間をとる漁師になる」ことです。すなわち、私たちキリスト者の歩みが、人々の心をキリストへと誘い、キリストと共に歩む者へと変えられてゆくことなのです。その意味で、非キリスト教国である日本では特に、私たちの生きざまが信仰の証しになっているのか問われているのだと思います。

「教会だより」の巻頭言 1月号

 

有田の大イチョウ(大公孫樹)2024.12.08

この世の旅人、巡礼者

カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

新年あけましておめでとうございます。今年は、25年に一度巡ってくる聖年に当たっています。教皇様は、1224日、降誕夜半ミサの時、聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を開いて聖年の始まりを告げました。聖年のテーマは「希望の巡礼者」とし、大勅書「希望は欺かない」を発布されました。主の再臨を待ち望み、その良き準備をする者にとって、新年は多くの恵みがもたらされる年となるでしょう。 

世界で起きている二つの戦争だけでなく、国内でも悲しい事件が毎日のように起きています。近年いじめを苦にした子供の自殺が多いのを嘆きながら、希望を失った子供たちは人生をリセットするような感覚で自分の命を絶ってしまうと評する人がいます。パソコンをリセットするかのごとく、簡単に人生のやり直しができるとでも思っているのでしょうか。

しかし大人も、日本の平均寿命が延びた時代とあって「PPK」で死にたいと願う人が増えているとのこと。PPKの意味は、英語の頭文字かと思いきや、「ピンピンコロリ」の頭文字だとか。その気持ちを詠んだ川柳「散るなんて知らぬが仏花盛り」は今日の世相を表しています。

このような思いの背景には、苦しみたくない、人に迷惑をかけたくないという思いがあるからでしょう。もし真剣にそのように思うようになったのなら、命に向き合う姿勢が問われていると思います。現実は、病に倒れた後、長い間、周りの人に介護されながら生きなければならないこともあります。健康な者が健康でない者を介護するといっても、それは多くの場合、肉体的に、より健康な者がそうでない者の面倒を見ることを意味しています。ところが肉体的に健康といっても果たして心も魂も含めた人間全体として健康な人がいるでしょうか。体がどんなに健康といっても、原罪に傷ついている私たちは自己中心的な生き方に傾きます。そのことの故に人間関係を傷つけ、あるいは傷つけられます。そして、お互いに苦します。

神さまの立場で考えると看病するといっても、不健康な者が不健康な者を看病しているにすぎないのです。この関わりを通して、どんな人も本当に健康になるために癒しが必要です。お互いに関わりを深めることで、思いやりの心や、命の尊さを学ばせていただくのだろうと思います。子供も大人もこの関わりを忌み嫌ったり、避けたりしないで、与えられたものとして受け、お互いに神に癒されるプロセスにさせていただき、人間として成長したいものです。神さまが与えてくださったもので、意味のないものは何一つないのですから。 

イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マコ 2:17

教皇さまの言葉にも「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることよりも難しいものです。」とあります。

キリスト者は絶えず希望を持ち続け、神に育てられながらこの世を生きる旅人であり、巡礼者なのです。