「教会だより」の巻頭言 5月号

 


苦難は希望を生む

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 聖母月を迎え、今自然はなんと美しいことでしょう。大地はあらゆるものの命を育みます。それ故、この大自然を母なる大地と呼びます。命を精一杯生きているものは、輝いています。喜びが満ち溢れています。そして命を育む神の業に参与することは、尊いことです。


特に母となった体験を持つ女性にとっては、身に沁みて感じておられることでしょう。何故なら神の創造の業に直接かかわり、協力することだからです。

「シオンは言う。主(神)は私を見捨てられた。私の主は私を忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書49:14-15)


  ある女性が、初めて母になった時の喜びを川柳に託して次のように詠みました。

「私でも ママになれたよ ありがとう」

この女性は、身ごもって十ヶ月、母子ともども元気で出産できるのか、出産してもその子の母親として務まるのか心配な日々を過ごしたのでしょう。そんな不安をよそに元気で生まれた赤ちゃんにも、授けてくださった神さまにも感謝したい気持ちが自然と湧いて「ありがとう」という言葉になったのでしょう。

母親になった喜びと、頂いた命を大切に育てようという意気込み、そして明るい希望が感じられます。

普通に交わされる平易な言葉を七五調にすると、こんなにも読む人の想像を掻き立てる句になるのですから不思議です。

 聖母マリアは、神の独り子をどんな心で生み、育てたのでしょう。世の親と同じように不安や悩み、そして苦しみを体験されたでしょうが、同時に忍耐の日々の中でも喜びと希望、そして平安が伴っていたのではないでしょうか。


聖パウロは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ 5:3–4)」と述べています。

私たち信仰者は、神の望みによってこの世に生まれ落ち、洗礼によって神の子としての命を得たのです。そして、母なる大自然の中で育てられ、その胎内で成長し、時満ちて、この世での死という門をくぐり抜けて新しい命の世界へと旅立つのです。


子を宿した世の親が抱く思いと同じように、私たち信仰者の生みの親である神は、新しい世界において希望を持って待ち受けているのです。

この世の旅人としての信仰者の歩みは、聖パウロの言葉通り、多くの苦難が伴います。しかし同時にそれらは希望を生むのです。信仰者の苦難と忍耐は、あたかも厳しい冬を耐え抜いて、春に美しく咲き乱れる花々のようです。

 


「教会だより」の巻頭言 4月号



復活信仰を生きる

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 主の復活おめでとうございます。 

「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ⅡPt 3:8-9

ところで、昆虫のカゲロウの寿命は、わずか一日だそうですが、私たちの寿命も永遠の次元で見れば一瞬なのでしょう。もし、人間の寿命を一日として、例えば最高96才まで長生きするとします。この場合は1時間で4年が過ぎてしまうことになります。96から現在の自分の年齢を引いて、4で割って見てください。その答えがあなたに残されている時間です。ただし、その3分の1位は眠っていますから答えを3分の2にすると、私の場合は、わずか2時間40分位しか残されていません。そう思うと余生を精一杯生きようという気になります。

  

聖パウロの言葉に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(ⅡCor 62)とありますが、ここでの「今」は、単なる時間経過での今ではなく、神の意志が現実になるタイミングを意味しています。だから、救いは未来の話ではなく、今ここにあるという意味です。つまり、神は手を差し伸べている。その手を握るのは「今」だ、という切迫した愛の呼びかけです。「今」は、歴史的にも個人的にも神の救いの恵みが現実に働いている時であり、心を閉ざしたままにするのか、受け取るのか、問われているのです。

 

復活について考える時、科学的、医学的考察、例えば、何歳の時の体で復活するのか、体に障害がある人が復活する時どうなるのか、母親の胎内で亡くなった子はどうなるのか、などと問うのではなく「キリストの死と復活に、どのように与っているか」ということ、すなわち、私たちの信仰の核心である「復活」をどう生きるのかという観点から考えることが大切だと思います。

  聖パウロは次のようにも述べています。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命(復活)に生きるためなのです。」(Roma 6:3-4

「キリストの死に与る」とは、キリストがどのように苦しみと死に耐え忍ばれたかを学び、それに倣って、自分の苦しみを受け止め直し、キリストと共に苦しみと死に耐えることです。しかし、聖パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(同8:18)と、キリストと共に苦しみに耐え忍んだ者の終わりの日の栄光(復活)の素晴らしさを述べています。

 

 復活とは、世の終わりに突然、起こることでもなく、復活の時のためにこの世での苦しみをただじっと耐えているのでもないのです。そうではなく、この世にあって先取りして、既に主の復活にも与っているから耐えられるし、苦しみの中でも喜んで生きることができるのです。勿論、完成するのは終末の時ですが、既に復活信仰のレールに乗って、希望のうちに栄光へと向かっているのです。 

さて、救いの恵みを受け取った私たちは、復活信仰をどのように生きているでしょうか。

  


「教会だより」の巻頭言 3月号

 

唐津城に咲いた梅の花

ゆるす心

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 四旬節に入り、4月5日の復活祭を喜び迎える心の準備が始まっています。どんな人も神のゆるしを受けて現在の自分があることを思い、神の寛大さ、慈悲深さに対して感謝の心を深めましょう。

 キリストは、罪を犯した人がゆるしを求めている人に対して「七の七十倍までもゆるしなさい。」(マタイ1821~35)と言われました。これは何回でもゆるしなさいという意味です。

ペトロが「七回までですか」と尋ねたとき、自分は寛大なつもりだったと思います。何故なら、当時のラビたちは、3回までゆるせと言っていたからです。

神のゆるしは、どれだけ我慢できるかという寛容の問題ではありません。またどのような行いをしたかを問う道徳の問題でもありません。罪に対する神と人、人と人との和解の問題なのです。

 被害者が加害者の過ちをゆるすことの難しさを感じることは誰でもあるでしょう。これだけは、一生ゆるすことが出来ないという思いを抱いて生きている人もいるかもしれません。

作家ヨハン・クリストファー・アーノルドは「ゆるす決心は常に自分の中から生まれてくるべきだが、自分の力でゆるす心に変わることはできない。ゆるす力は自分の中から湧き出てくるものではなく、ゆるされたという自分の体験から得られるものだ。」と述べています。

どんな人も、聖霊の光に照らされなければ、自分の闇は自覚できないからだと思います。

上記の聖書箇所の後半に書かれた譬え話は、神に対する私たちの罪の本質を自覚させる話だと思います。自分の闇を悟らず、負い目を認めようとしない人間と、それを遥かに勝る寛大さでゆるす神。だから、私たちが「主の祈り」で「私たちの罪をおゆるしください。私たちもゆるします。」と祈り、神の慈悲を願うのです。私たちが、毎日のように神のゆるしを頂く必要があることを思い出すためです。

キリストが教えたゆるしの積極的な意味は、受け入れることです。どんな人も、神に愛された者、神に期待された者であること。神にとって、価値がある存在なのです。もし他人の過ちをゆるすことが出来す、その人を受け入れられないなら、私たちのために命をも捧げてくださったキリストのゆるしと愛を否定し、受け入れないことです。

神にも人にもゆるされ、受け入れられたという体験はよろこびと生きる希望を与えてくれます。その体験を重ねることは、あたかも池に投げ込まれた小石によってできる波紋のように、次第にゆるせる心の波が、頑なな心の中に広がってゆくでしょう。 

 もし私たちが心から互いにゆるし合うなら、キリストが示してくれたゆるす心の波紋は文化の中に、そして世界に広がり真の和解と平和が訪れるでしょう。

 








「教会だより」の巻頭言 2月号

 

過去と未来

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 既に過ぎ去った過去から学ぶことはできますが、人間は、過去を変えることはできません。だから未来に期待をかけます。未来の方に顔を向けて生きようと心掛けます。


  しかし聖書に「未来」と訳されている原文のヘブライ語「アハリート」の語根「アハル」は「背後」という意味です。ヘブライ人の時間に対する向き合い方は、未来を背後に、過去を目の前に置いて生きていました。ということは、時間の流れの中で、顔を向けている方向は過去であって、未来ではありません。


  どうしてそのような生き方をしたのでしょうか。過去は目の前にある確かなことです。不完全とはいえ、調べることも、教訓を得ることもできます。しかし未来は不確かなこと。想像するしかありません。未来は彼らにとって、神の導きの中で訪れることであり、人間は支配できないこと、神を信頼して待つことと考えていたのです。

 

 彼らの信仰は抽象的なものではなく、歴史の中で為された神の行為に根ざす、具体的なものでした。目に見えない未来より、記憶にも記録にも残る過去に行われた神の愛の行為を彼らは大切にしました。

 

例えば、出エジプトの体験に対して、彼らは何を思ったのでしょうか。荒れ野の長い旅は,確かに,つらいものでしたが、あの苦しさは、神の慈しみ、神の愛をより深く知る旅であったと思っていました。

 

神は無意味に人を苦しめることはありません。過去に神が為された多くのことから、神の愛を学び取ったのです。

 

ヘブライ人にとって、過去は手の内にあり、未来は神のみが知る世界。人間があれこれと推測し、神の懐を探るようなことはすべきでないのです。しかし、未来に対する備えを何もしないのではなく、過去を学び、神への信頼を深め、生きる力と勇気を得るのです。同時に未来に対する覚悟をもった心の備えと神の愛に応えるための具体的対策を立てるのです。

 

 私たちは神の慈しみと導きを信じきれない時、未来を予測することを求め、不安と恐れを取り除こうとつとめます。しかし、完全な予測は出来ないし、完全な備えもできません。いつまでも私たちの心には不安がつきまといます。どんなに科学が発達しても、将来、何が起こるか完全に予測することは出来ません。

 

 未来が大切だからこそ、私たちも今まで以上に、世界の歴史と自分の半生の中で、過去に為された神の愛の足跡を見出して、感謝と平安と喜びを深めることができるよう願いましょう。未来に向けて、神への深い信頼を持って、今(現在)を生きるために。


「教会だより」の巻頭言 1月号

 


飛躍の年になれ

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 新年 明けましておめでとうございます。

今年は午年ですから、馬が持つ活発さ力強さにちなんで飛躍の年にしたいものです。

 日本の社会福祉に貢献した牧師、山室軍平の著書『民衆の聖書』に引用された昔話「1匹のキツネがいた。垣根の向こう側にぶどう畑があって、キツネはそれを食べたいのだが、垣根の小さい穴を通り抜けることができなかった。そこでキツネは三日間断食をして腹を細くして垣根を通り抜けた。キツネは畑のぶどうを腹一杯食べて帰ろうとしたところ、また腹がふくれて今度は外に出られなくなってしまった。それでまた三日間断食をして腹を細くしてようやく出てきた。

 

著者は「裸でこの世に入ってきて、また裸でこの世を出ていく人間の運命も、大いにこのキツネと似たところがあるではないか。だから私どもは目前の利欲に迷って、人間の大道を踏み迷うようなことがあってはならない」と言っている。

「欲深き人の心と降る雪は、つもるにつれて道を忘るる」 

マザー・テレサは「信仰を失うより、命を失うことをわたしは選びたい」と述懐している。神の愛と永遠の命を信じるからである。キリストは、私たちの罪深さより、さらに深い愛をもって導いておられる。今も聖霊を通して、その愛は変わらない。

 

愛された者として生き生きとした信仰者に成るにはまず、キリストが示してくれた深い愛を知ることだと思う。キリストが捕らえられたとき、見捨てて逃げてしまった使徒たちは、後でキリストの愛の偉大さを知って強い信仰に変えられた。その後は、その愛に応えたい一心で、殉教すら恐れなかった。日本でもそのような人々が、過去にもいたし、現在もいる。

 

だから新しい年が「今年こそは、偉大な信仰者たちに倣って、キリストをより深く知り、交わる者に飛躍できますように」と祈りたい。そして「イエス・キリストというお方をもっと知りたい」と世の人々に思わせる者になれたら幸いだ。

 

キリストの愛に駆られて懸命に生きることは、神不在、宗教嫌い、人間不信と言われる現代社会において、最も求められている福音宣教の要素ではないかと思っている。

 

不条理と困難に満ちたこの世にあって、どんなことにも感謝と喜びをもって生きる信仰者の姿を見れば、世の人々は不思議に思うだろう。

 

このような生き方ができる人の姿を聖パウロは「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、全ての物を持っている。」(Ⅱコリント 6:10)と述べている。


「教会だより」の巻頭言 12月号

金立公園コスモスの園

生まれ変わる日


カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

 主の降誕、おめでとうございます。ルカ福音記者が記した聖書箇所(ルカ1:26-56)からマリアの心を推察しながら神さまのなさる業の神秘に分け入りたいと思います。

 

マリアの賛歌と言われるこの箇所は「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえ、おどります」と詠っています。この神のお告げを受けたときのマリアの喜びはどれほど大きかったことか。マリアの神さまに対する思いの大きな変化があったからだと思います。

 

多くの人々は、神を忘れて自分の力で生きようとしたり、神以外の力に頼ろうとしたりします。ところがマリアは「この主のはしためである私にも目を留めてくださった」と詠っています。「はしため」とは女奴隷。マリアは、私は神の女奴隷ですと言っています。奴隷は主人に自分の全部を明け渡します。だからマリアは、「私は神さまのために自分を空っぽにしました。神のための土の器(Ⅱコリント4:7)です。この器を神さまのご用で満たしてください」という思いを述べているのです。これは、マリアの心に変化が生じた証拠です。

 

マリアは長い間、自分は神のみ前に至らぬもの、神の恵みから一番遠いと思っていました。しかし、神のみ使いの言葉を通して、神の恵みの大きさと自己の愚かさに気付かされたのです。自分は神に愛されたものであり、神から受けた使命があると考えました。そのときから、マリアは今までと違う価値観、生き方で、神に全てを委ねて生きる者となったのです。もはや今までのマリアとは違う人間に変えられたと言えます。

マリアにとって、主である神こそが全てであり、この方を全身全霊で愛し、仕えることこそ最も価値あることと悟ったのです。まさに、これはマリアが生まれ変わった時であり、それは聖霊のなす業です。

 

この生まれ変わりに関連することですが、福音書(ヨハネ3:4)に、ニコデモという人とイエスとの対話が書かれています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」という愚問をしています。「神の霊によって、上から新しく生まれ変わらなければ、神の国に入ることはできない」という意味です。

 

神の呼びかけに対して「おことばどおり、この身になりますように」とマリアが答えることによってマリアは、人間としての人性を保ちながら、神の霊によって新しく生まれ変わり、神の霊に生きる者となりました。一方、父なる神の独り子は、マリアの胎内で、神としての神性を保ちながら、体を持った真の人間として生まれました。ここに神の計らい、救いの業の神秘を抱かずにおれません。

 

幼子の誕生の日は、聖母マリアのように私たちも生まれ変わる日なのです。私たちが、幼子の霊を宿して生きるなら、真に福音的価値観に生きる者へと生まれ変わるでしょう。

「教会だより」の巻頭言 11月号

アガパンサスの花

 

わたしの荷は軽い


カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書1128-30節)

 

佐賀地区の信徒の皆さんは今年も不動山ふれあい体育館で、殉教者たちを顕彰するミサに参加し、命を捧げた先達たちの苦しみを思い、祈りを捧げました。

殉教者たちは、棄教する機会はいつでもあったはずなのに、そうせずに信仰を貫いたことは、命より大切なものとして信仰を抱いていたのです。そして迫害を逃れ、身を隠してでも生きようとされたことは、自分の思いや願いではなく、神の思いである神の御旨に自分のすべてをゆだねて、最後まで自分の命を大切に生き抜いた人々です。

 

恵まれた今日の私たちの社会では殉教ということは起こりえないかもしれません。しかし自分の思いではなく、神の御旨に生きるために、必要があれば生命を賭してでもその生き方を貫抜こうとすることが、私たち信仰者は求められていることは、昔も今も変わりありません。

 

ところが私たちは、神の御旨、神の思いがよくわからない、何となく感じていても保身や利己心のために、神の御旨に反するこの世的価値観や生き方に流れてしまいがちです。豊かで平和であればこそ真心から神に従うことが難しいのです。信仰の自由が保証されている時代であっても、その意味で私たちは重荷を背負わされて生きているようなものです。信仰の恵みを頂いていても、この大きな恵みを受け止めきれずに、逆に重荷になっている人さえいるのです。

 

仕事や看病に疲れ、そして人間関係の難しさに押し潰されそうになっている人もいます。人間的な弱さや限界、自分のことで精一杯であり、他人の重荷、苦しみなど気付くゆとりのない現実の生活を省みるとき上記のキリストの言葉は、そう易々と誰でも言えるものではありません。

 

キリストの生き方は、無制限に、無差別に、十字架上の死に至るまで自分を与え続け、私たちへの深い理解、利己心のない愛を注いでくださったのです。そして今も私たちを支え、育て御自身の命を与え続けておられるのです。私たちは自分の弱さ、ちっぽけな存在であることを知れば知るほど、イエスの言葉が、どんなにか重みがあり、慈悲深い言葉として響きます。その生き方の源泉は、私たちに対する溢れるほどの愛、慈しみでした。キリストが私たちにとって、魂の安らぎと癒やしになって下さいますように。

 

私たちが、苦しみ悩む時、キリストのうちに本当の安らぎと平安を得ることが出来ますように。そして、今日のキリストの言葉が「神が私に与えてくださった荷は、本当に軽い」と心から思えるようになりたいものです。