| ダリア(キク科) |
みな兄弟姉妹
カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
今年はアッシジの聖フランシスコの没後 800年に当たります。教皇レオ14世は「貧しい人のための世界祈願日」のためのメッセージを出されました。
聖フランシスコは、貧しい者となって生きることで、この世のあらゆることへの執着心から解放されたのでした。「貧しさ」を人格化して「貴婦人」と呼び、あたかも自分の花嫁であるかのように語ったと伝えられています。それは、貧しい者として生きられたキリストに倣うためであり、同時に平和の使者であるキリトの後に従うためでした。
平和を願う多くの人々がいるにもかかわらず、いつの時代も武力による国際紛争が絶えません。今も起きています。おびただしい数の人々が毎日のように命を奪われています。争いは、人間が起こすもの、人間の仕業です。争いの根源は、人間の心の中にあります。
公園の広場で幼い子供たちが、おもちゃの奪い合い。ある子供は広場の片隅で泣いています。こんな光景を見ると、そこに戦争の縮図があるような気がします。強い子は、おもちゃを独占します。気に入らない子を仲間はずれにします。人間が生まれながらに持っているこのような性(さが)は、いつ、どのようにして心の中に入り込んだのでしょうか。この性は、子々孫々まで受け継がれてゆくのでしょうか。こうした光景はどこかで、何時も起きている、この世の現実の姿です。
童謡作家、まど・みちお氏の作品に次のような詩があります。
「ありくん、きみはだれ」
ありくん、ありくん、きみはだれ?
ぼくのなまえはさぶろうだけど
ありくん、ありくん、きみはだれ?
ありくん、ありくん、ここはどこ?
にんげんでいえば にっぽんだけど
ありくん、ありくん、ここはどこ?
神の目から見れば、人間は蟻のように小さく、忙しく動き回り、縄張り争いをしているかのように見えるのかもしれません。しかし神は、そんな蟻のような人間を慈しみの目を持って見詰め、育てておられるのです。私たちにとって「この人は身内」「あの人は他人」という区別は、とても重要なことです。しかし、神の目から見れば、この世の全ての人は、天の父なる神の子であり兄弟姉妹です。「ここは自分たちのもの、ここは自分たちの国だから国境を守る」と言います。しかし、もともと、この地上のどこにも人間が引いた「線引き」はありませんでした。この世のあらゆる所は、造り主である神のものです。
アシジの聖フランシスコは、病の苦しみの中で「太陽の歌」を書きました。その中で、太陽を「兄弟なる太陽」、風や火も「兄弟」、月や水、大地を「姉妹」と呼びかけています。そこには人間だけではなく、神がお造りになった全てのものを、兄弟姉妹として受け入れる心がありました。その思いは普遍的で、宇宙的広がりを持っています。さらに、肉体の死に対してさえ、「姉妹なる死」と呼びかけ、自分の死をも神から与えられたものとして受け入れたのです。
教会の現状は、高齢化と信徒数の減少が進む一方で、滞日、在日外国人の信徒数は増加するという時代を迎えています。宇宙万物の創造主である神を信じる私たちは、多国籍の教会の時代を迎えた今こそ、聖フランシスコが示してくれた精神を大切にする必要があるのではないでしょうか。
