カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
キリストの最初の弟子たちは、色々な困難に遭遇しましたが、それを乗り越えることができたのは、ある日、生き方が決定的に変わるほどの体験をしたからでした。
イエスが、ある時ペトロに次のようにお尋ねられました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロは「あなたは生ける神の子、メシアです。」と答えました。イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた後、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。イエスは振り返って、ペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:33)
キリストの招きに答えて弟子となり、寝起きをともにしていたペトロでしたが、当時はまだ、キリストをよく理解できていませんでした。「あなたはメシアです」と答えても、政治的な王、偉大な預言者としてのイエス理解でした。だから主が、苦難を乗り越えて喜びに入られることも、十字架を通して復活されることも想像すらできなかったのです。しかし、この世でのさまざまな苦しみを乗り越え、復活されました。復活されたキリストに出会って、弟子たちは初めてキリストが誰であるかという正しい理解が得られ、その後の生き方が根本的に変わりました。
弟子たちは、キリストの死は私たちの救いのためであったこと、キリストの歩んだ道をたどれば、自分たちもキリストのように復活することを知って、そのキリストの愛に応えたい思いと、大いなる栄光への希望が湧き、弟子たちの心は命を捧げるほどに高揚し、変えられたのです。
いつの時代であっても、私たちはこのような体験をすることができるのです。主は、十字架上の死から復活へと通じる道を示してくださったのです。その道は苦しみが必ず伴うものですが、苦しみの中にある時にも、すでに喜びを見出せる道でもあります。何故ならどのような苦難も、すでに栄光を得たかのような確信と希望のうちに歩み、愛に応えようとする道だからです。
聖アウグスティヌスは、次のように言いました。「愛は、最も困難なこと、最も苦しいことを、全く負いやすく、その重荷を無にします」と。
殉教者たちが自分の死を目前にしながらも神を賛美しながら信仰を証しできたのは、十字架の向こうに、あたかも既に栄光の世界に入ったかのように、しっかり復活を見据えて希望していたからです。わたしたちも苦悩の淵にあっても栄光を見つめることができるのです。苦しみの中にありながら喜びを、肉体の死へ向かう中にあっても永遠の命を生きることができる信仰を得ているのです。