| ムラサキツユクサ |
キリストと共に傍らに立つ
カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
先月は当教会でも、こどもの日、母の日を祝いました。家族が愛し合い、共に助け合って生きることは何と麗しく素敵なことでしょう。ところがイエスは使徒たちに言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
この御言葉には驚きと困惑を禁じ得ない人がいると思います。キリストの真意はどこにあるのでしょうか。人生の“中心”をどこに置くのかという問題であって、比較の問題ではないのです。家族愛も尊い。しかし絶対化すると人を縛るのです。家族の期待、慣習、価値観が、神の呼びかけに反する場合もあります。そのとき、最終的な判断基準はどこに置くのか が問われます。イエスはその基準を「神の国」「神の意志」に置くよう求めているのです。
「神の国」を中心に置いて考えると、全ての人が家族であり、兄弟姉妹であるということです。しかし、このようなキリストの言葉を実践することは困難が待ち受けているのが必至です。それでも「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」と言われます。この道は、とても自分一人では困難な道です。キリストと共に、助けを受けながら歩むしかありません。
フランスのカトリック作家、ジョルジュ・ベルナノスが述べた「キリスト者にとって貧しい人の傍らに立つことはそれほど難しいことではない。しかし、本当に困難なことは、キリストと共に貧しい人の傍らに立つことである。」という言葉は、わたしたちの生き方を見直させてくれます。
親切心でする行為は、キリストと共に傍らに立ち、キリストの視点で為されるのでなければ、多くの場合、自己満足に陥ったり、偽善になりがちです。キリストと共に傍らに立つことは、キリストの思いを優先させることであり、自分を無にすることだからです。
何か人助けをするといっても、気をつけないと私たちは、独り善がりの善行になってしまいがちです。隣人に対してだけでなく、家族に対しても相手の気持ちや、キリストへの思いを無視して、いつの間にか自己満足のための行為に成り下がってしまいます。
キリストのように愛する人は、相手を誰かと比較することをしません。身内の者でなくても、知識人でなくても、またどんなに貧しい人であろうとも、差別することがありません。どんな人も神さまに造られ、愛され、独自の使命を受けて生かされているからです。そしてどんな人も、必要とされている存在です。
それは例えて言えば、ジグソーパズルのようです。どのピースも必要なもの、他のピースと比較するものではなく、どこかに収まるように造られているのです。それがなければ完成しないのです。そのことが、今わからなくても全体が出来上がる時、明らかになるでしょう。
同じように、私たちは神様の思いと計画が、この世にあるときは、完全にはわかりませんが、いずれわかる時が来るでしょう。信仰者はそれを信じているのです。
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