「教会だより」の巻頭言 4月号

 


復活信仰を生きる

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 主の復活おめでとうございます。 

「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ⅡPt 3:8-9

ところで、昆虫のカゲロウの寿命は、わずか一日だそうですが、私たちの寿命も永遠の次元で見れば一瞬なのでしょう。もし、人間の寿命を一日として、例えば最高96才まで長生きするとします。この場合は1時間で4年が過ぎてしまうことになります。96から現在の自分の年齢を引いて、4で割って見てください。その答えがあなたに残されている時間です。ただし、その3分の1位は眠っていますから答えを3分の2にすると、私の場合は、わずか2時間40分位しか残されていません。そう思うと余生を精一杯生きようという気になります。

  

聖パウロの言葉に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(ⅡCor 62)とありますが、ここでの「今」は、単なる時間経過での今ではなく、神の意志が現実になるタイミングを意味しています。だから、救いは未来の話ではなく、今ここにあるという意味です。つまり、神は手を差し伸べている。その手を握るのは「今」だ、という切迫した愛の呼びかけです。「今」は、歴史的にも個人的にも神の救いの恵みが現実に働いている時であり、心を閉ざしたままにするのか、受け取るのか、問われているのです。

 

復活について考える時、科学的、医学的考察、例えば、何歳の時の体で復活するのか、体に障害がある人が復活する時どうなるのか、母親の胎内で亡くなった子はどうなるのか、などと問うのではなく「キリストの死と復活に、どのように与っているか」ということ、すなわち、私たちの信仰の核心である「復活」をどう生きるのかという観点から考えることが大切だと思います。

  聖パウロは次のようにも述べています。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命(復活)に生きるためなのです。」(Roma 6:3-4

 

「キリストの死に与る」とは、キリストがどのように苦しみと死に耐え忍ばれたかを学び、それに倣って、自分の苦しみを受け止め直し、キリストと共に苦しみと死に耐えることです。しかし、聖パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(同8:18)と、キリストと共に苦しみに耐え忍んだ者の終わりの日の栄光(復活)の素晴らしさを述べています。

 

 復活とは、世の終わりに突然、起こることでもなく、復活の時のためにこの世での苦しみをただじっと耐えているのでもないのです。そうではなく、この世にあって先取りして、既に主の復活にも与っているから耐えられるし、苦しみの中でも喜んで生きることができるのです。勿論、完成するのは終末の時ですが、既に復活信仰のレールに乗って、希望のうちに栄光へと向かっているのです。

 

さて、救いの恵みを受け取った私たちは、復活信仰をどのように生きているでしょうか。

  

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