「教会だより」の巻頭言 3月号

 

唐津城に咲いた梅の花 2月中旬

ゆるす心

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 四旬節に入り、4月5日の復活祭を喜び迎える心の準備が始まっています。どんな人も神のゆるしを受けて現在の自分があることを思い、神の寛大さ、慈悲深さに対して感謝の心を深めましょう。

 キリストは、罪を犯した人がゆるしを求めている人に対して「七の七十倍までもゆるしなさい。」(マタイ1821~35)と言われました。これは何回でもゆるしなさいという意味です。

ペトロが「七回までですか」と尋ねたとき、自分は寛大なつもりだったと思います。何故なら、当時のラビたちは、3回までゆるせと言っていたからです。

神のゆるしは、どれだけ我慢できるかという寛容の問題ではありません。またどのような行いをしたかを問う道徳の問題でもありません。罪に対する神と人、人と人との和解の問題なのです。

 被害者が加害者の過ちをゆるすことの難しさを感じることは誰でもあるでしょう。これだけは、一生ゆるすことが出来ないという思いを抱いて生きている人もいるかもしれません。

作家ヨハン・クリストファー・アーノルドは「ゆるす決心は常に自分の中から生まれてくるべきだが、自分の力でゆるす心に変わることはできない。ゆるす力は自分の中から湧き出てくるものではなく、ゆるされたという自分の体験から得られるものだ。」と述べています。

どんな人も、聖霊の光に照らされなければ、自分の闇は自覚できないからだと思います。

上記の聖書箇所の後半に書かれた譬え話は、神に対する私たちの罪の本質を自覚させる話だと思います。自分の闇を悟らず、負い目を認めようとしない人間と、それを遥かに勝る寛大さでゆるす神。だから、私たちが「主の祈り」で「私たちの罪をおゆるしください。私たちもゆるします。」と祈り、神の慈悲を願うのです。私たちが、毎日のように神のゆるしを頂く必要があることを思い出すためです。

キリストが教えたゆるしの積極的な意味は、受け入れることです。どんな人も、神に愛された者、神に期待された者であること。神にとって、価値がある存在なのです。もし他人の過ちをゆるすことが出来す、その人を受け入れられないなら、私たちのために命をも捧げてくださったキリストのゆるしと愛を否定し、受け入れないことです。

神にも人にもゆるされ、受け入れられたという体験はよろこびと生きる希望を与えてくれます。その体験を重ねることは、あたかも池に投げ込まれた小石によってできる波紋のように、次第にゆるせる心の波が、頑なな心の中に広がってゆくでしょう。 

 もし私たちが心から互いにゆるし合うなら、キリストが示してくれたゆるす心の波紋は文化の中に、そして世界に広がり真の和解と平和が訪れるでしょう。

 




0 件のコメント:

コメントを投稿