「教会だより」の巻頭言 4月号



 復活の主は共におられる


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

主の御復活おめでとうございます。

今年、カトリック教会は聖年を迎えています。あらためて信仰の核心である復活の主を思い巡らしたいものです。「わたしの愛する人たち、いつも(神に)従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:12-13)と聖パウロは述べています。「恐れおののきつつ」と表現していますが、信仰を得た恵みを当たりまえのように感じてしまうほど慣れて、この恵みによって既に自分が救われている事実を、もし感動もしなければ、喜ぶ事もなく信仰生活をしているなら、考え直さなければなりません。


キリストは、救うために、尊い命を十字架上で投げ出してくださったのです。この私の為に、苦しみながら死んで行かれたのだ、と心の底から思うことができる人は、与えられた救いの重さ、尊さに、感謝するでしょう。もし自分の信仰に喜びや感動がないのならば、キリストの十字架に現れた神の偉大さに思いが至らないからです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)真摯に十字架を見つめることによって、自分の復活信仰が強められ、信仰生活のあるべき姿を取り戻し、喜びと感動の生活へと変えられてゆくのです。


 救いは、神さまの側でなされ、それが恵みとして与えられたものです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(フィリピ2:13)から、たじろぐことがあってはなりません。主は私たちと共にいて、心に働いてくださり「あなたは私の子である。私はあなたの神である」と言って、主を信頼する者へと導かれます。


 神は、その絶大な力をもって、絶望と死の中からイエス・キリストを復活させた方です。キリストに働いた、その偉大な力を、神は私たちにも働かせて下さいます。キリストによって、神の子とされた私たちに、いつもみ言葉に従う願いを起こさせ、行うための力も与えて下さるのです。


私たちは弱くて、頼りない人間ですが、神が共に居て、変えてくださいます。だから復活を信じる恵みを頂いた私たちは、神の偉大な力を内在する者なのです。神の助けを得て、自分の救いを達成しなければなりません。そのために絶えず与え続けておられる神の力に信頼しましょう。


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 <愚かしい口論>

買い物客が多くて、レジの前には行列ができていた。頬髭をはやした労働者のゼレンスキーという人が、自分の番になり財布からカードを取り出すのに手間取っていると、次の番を待っていたトランプという大金持ちの大男が「お前にはカードが無いだろう、だから現金で早く支払え。」と怒鳴った。すると列の後ろにいた正義感あふれる若者が言った。「失礼な事を言うな。金と権力を盾に人を見下すな。」


「教会だより」の巻頭言 3月号

太閤が睨みし海の霞哉・名護屋城跡・呼子港と玄海灘


聖年は恵みの年


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

聖年を迎えての四旬節の季節になりました。回心して神にたち帰ることは、もう遅いということはありません。誰でも少しばかりの軌道修正のような回心は生涯続ける必要があります。 

旧約聖書の伝道の書に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。泣く時、笑う時。求める時、失う時。黙する時、語る時。愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(伝道3章)

また、ルカによる福音書には次のような譬え話があります。3年もの間、実のならないいちじくを見て、主人は命じます。「こんないちじくは切り倒してしまえ。土地がふさがるだけだ」( ルカ13章)。しかし園丁は頼みます。「もう1年待ってください。来年になったら実がなるかも知れないからです」。こうして主人はもう1年待ちました。神は実を結ぶまで、じっくりと待って下さるのです。神は哀れみ深い方です。

考えさせられる4コマ漫画があります。1コマ目には「子供が楽しく遊んでいる」絵に、一言書かれていました。「若すぎる」。2コマ目「アベックの二人」の絵に「幸せすぎる」。3コマ目「働いている人」の絵に「忙しすぎる」。4コマ目「墓」の絵に「遅すぎた」と書かれていた。

 まだ若いから、今は幸せだから、今は忙しいから。そんなことを言っているうちに人生を終えてしまい、ついに回心することなく墓に入った人の一生を暗示する風刺漫画なのです。 

人間は、自分の立場を守りたい、理解してもらいたい一心で、言ってはならないことを言ってしまったり、自分を正当化しようとして口論になり、相手の心を傷つけたりして、後悔することが多いものです。人間は多かれ少なかれ、人を傷つけて生きています。なかには大変深刻な問題を抱えて、ゆるしてもらいたいけどゆるしてもらえない、ゆるしたいのにゆるせなくて悩ましい思いで生きておられる人も少なくないのです。

そんな弱い私たちのことを最も良く理解しておられる方が、イエスさまです。

「今や恵みの時、今こそ救いの日」(ⅡCor 6:2

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<笑い話>

①.高校1年生がアメリカ留学することになった。ホームステイ先も決まり家族一同、喜んだ。すると英語のわからない祖母は、親戚や近所の人に「うちの孫はアメリカでホームレスするんです」と自慢げに言いふらした。

しかし、みんなへんな顔をして同情した。

②.ある有名な画家の飼い犬が病気になったので、獣医でなく、最も評判の高い医師に往診を頼みに、使いの者を出した。すると名医はメモ書きした紙片を使いの者に渡した。

 窓の雨戸二枚にペンキを塗って頂きたいので、我が家までおいで願います。」

??高名な画家と名医のプライドの衝突??

 


「教会だより」の巻頭言 2月号

 



キリスト教国でない日本のキリスト者は、キリスト教国の人々以上にキリスト者として生きる理由を自問するのではないでしょうか。

遠藤周作は「子供の頃に受けた洗礼とキリスト者として生きることが自分の体に合わない服を着せられているような違和感を覚えていた時期があった。」と証言しています。私たちは、どうしてキリスト者として生きているのか、その確かな理由を胸に秘めているでしょうか。幼児洗礼であろうと大人になってからの洗礼であろうと、確かなものを抱いているかを自分に問う時、誰でも不思議な思いにかられるのではないでしょうか。

この神秘を考える時、使徒たちの召し出し(マルコ1:14-20)の例は、何かのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。

聖書によると、まずキリストが先に彼らを呼び出すことによって弟子になりました。普通は師弟関係ができるとき、弟子になりたい人が先に師に願って弟子にしてもらうのが常ですか、キリスト者としての召命は、いつもキリストが先に呼び出すということです。私たちが選んだのではなく、キリストが私たちを先に選び、呼んだということです。キリスト者は、いつも心の底にキリストが私を呼んでくださったという思いがあるのか問わなければなりません。

しかし、それに応えるためには、悔い改めてキリストに心を向けなければなりません。心を神に向けるという「回心」は一生涯のことであって、生き方が変わることを意味しているのです。単に道徳的に改心して行いを改めることを意味する以上に、全身全霊で「神に立ち帰る」ことです。しかし、回心は始まりであって、弟子たちも長い期間をかけて、回心の道を歩みました。私たちも絶えず回心の道を歩んでいるか問われます。

キリストは弟子たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。イエスの召し出しは、ついて行くことが重要なのです。資質や才能があるから、神は私たちを選んだのではありません。ただ神のみ旨によるのです。キリストの教えは、知識を身につければ解るというようなものではなく、共に生きることによって少しずつ分かってくるものなのです。 最初の弟子たちがそうであったように特別な学問的素養がなくても福音を理解し、信じ得るのです。キリストと共に教会の群れの中で生活することが重要なのです。

キリストが求めるのは、どれほど多くの人に福音を宣べ伝えたかとか、信仰の証しを立てる勇気と力があるかということでもありません。ついて行けば、キリストご自身が導き、育て、使命を与えてくださるのです。

  私たちの使命は「人間をとる漁師になる」ことです。すなわち、私たちキリスト者の歩みが、人々の心をキリストへと誘い、キリストと共に歩む者へと変えられてゆくことなのです。その意味で、非キリスト教国である日本では特に、私たちの生きざまが信仰の証しになっているのか問われているのだと思います。