「教会だより」の巻頭言 3月号

太閤が睨みし海の霞哉・名護屋城跡・呼子港と玄海灘


聖年は恵みの年


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

聖年を迎えての四旬節の季節になりました。回心して神にたち帰ることは、もう遅いということはありません。誰でも少しばかりの軌道修正のような回心は生涯続ける必要があります。 

旧約聖書の伝道の書に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。泣く時、笑う時。求める時、失う時。黙する時、語る時。愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(伝道3章)

また、ルカによる福音書には次のような譬え話があります。3年もの間、実のならないいちじくを見て、主人は命じます。「こんないちじくは切り倒してしまえ。土地がふさがるだけだ」( ルカ13章)。しかし園丁は頼みます。「もう1年待ってください。来年になったら実がなるかも知れないからです」。こうして主人はもう1年待ちました。神は実を結ぶまで、じっくりと待って下さるのです。神は哀れみ深い方です。

考えさせられる4コマ漫画があります。1コマ目には「子供が楽しく遊んでいる」絵に、一言書かれていました。「若すぎる」。2コマ目「アベックの二人」の絵に「幸せすぎる」。3コマ目「働いている人」の絵に「忙しすぎる」。4コマ目「墓」の絵に「遅すぎた」と書かれていた。

 まだ若いから、今は幸せだから、今は忙しいから。そんなことを言っているうちに人生を終えてしまい、ついに回心することなく墓に入った人の一生を暗示する風刺漫画なのです。 

人間は、自分の立場を守りたい、理解してもらいたい一心で、言ってはならないことを言ってしまったり、自分を正当化しようとして口論になり、相手の心を傷つけたりして、後悔することが多いものです。人間は多かれ少なかれ、人を傷つけて生きています。なかには大変深刻な問題を抱えて、ゆるしてもらいたいけどゆるしてもらえない、ゆるしたいのにゆるせなくて悩ましい思いで生きておられる人も少なくないのです。

そんな弱い私たちのことを最も良く理解しておられる方が、イエスさまです。

「今や恵みの時、今こそ救いの日」(ⅡCor 6:2

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<笑い話>

①.高校1年生がアメリカ留学することになった。ホームステイ先も決まり家族一同、喜んだ。すると英語のわからない祖母は、親戚や近所の人に「うちの孫はアメリカでホームレスするんです」と自慢げに言いふらした。

しかし、みんなへんな顔をして同情した。

②.ある有名な画家の飼い犬が病気になったので、獣医でなく、最も評判の高い医師に往診を頼みに、使いの者を出した。すると名医はメモ書きした紙片を使いの者に渡した。

 窓の雨戸二枚にペンキを塗って頂きたいので、我が家までおいで願います。」

??高名な画家と名医のプライドの衝突??

 


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