「教会だより」の巻頭言 4月号

 


突然、復活された主が見えなくなった

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
 
 教会暦は今、復活節を迎えています。復活に関しての聖書箇所は沢山ありますが、エマオへの旅人の話(ルカ24:13-35)は不思議な事を述べています。そこには見落としがちな重要なことが含まれています。

 二人の旅人は、3時間近く復活されたイエスと会話をしながら 歩いていたのに、その方がイエスだとわからなかったとあります。大変不思議なことです。それ以上に、イエスは夕食に招かれてパンを分け与えられたとき二人の旅人は、やっとイエスだと気がついたのです。しかし、その時、復活したイエスの姿は見えなくなったとあります。なんと、不思議なことでしょう。
 
 ところで、この復活の記事をどのように受け止めたらいいのでしょう。どうして急に見えなくなったのでしょうか。確かに、姿が見えなくなったとルカは記述していますが、存在しなくなったとは言っていません。多分、すでに復活の主と一つになったこと、復活の信仰を自分のものにすることが出来たことを意味しているのだと思います。そうなると、肉体の目で見えるか、見えないかは、もはや重要なことではないのです。復活した主が確かに私たちと共にいてくださるという信仰を得たら、目で見て主と一つになるのと見えなくても信仰において主と一つになることは同じことなのです。
 
 キリストを知る重要な二つの方法は「聖書に親しむことにより、キリストを知る」、「パンを裂く式に参与して、キリストを知る」ことです。二人の旅人はエマオへの道中、ずっとイエスに、聖書に書かれていることについての説明を受けていたとあります。その時、彼らは心が燃えていたのです。パンを分け与えられたとき、初めてイエスだと気が付きました。聖書の説明を受けたときも、パンを分け与えられたときも、どちらも私達の努力の報いではなく、神の恵みです。そしていずれの時も心は喜びで満たされ、共にいてくださる方への確かな信仰へと導かれたのです。

 食事を共にしてくださった時、復活されたイエスからパンを頂いて、突然イエスが肉眼の目で見えなくなっても、二人の旅人は喜びに満たされていたように、わたしたちが、ミサの中で聖体拝領をするとき、イエスと心が一つになったことで喜びに満たされているかが問われているのではないでしょうか。

 聖体拝領は、信者の努めを果たして得られる安堵感のようにでもなく、心の栄養剤を頂いて癒やされるかのようにでもなく、拝領するたびに、復活の主と心が一つなった喜びがあることが重要なのではないでしょうか。勿論、復活の主と心が一つになるのは、この世においては瞬間的なことでしょうが、その出来事は、将来、私たちの完全な復活の秘儀に与るための前触れでもあるのだと思います。その意味で、わたしたちは、既に主の復活の秘儀に与り始めているのです。わたしたちに先立って、復活してくださった主に感謝しましょう。
  
  主はまことによみがえられた。 アレルヤ !

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