「教会だより」の巻頭言 3月号

 


主の復活おめでとうございます   

主任司祭 江夏國彦

  今年は、3月に復活の主日を迎えます。自然界も、寒い季節を耐え抜いて、春の喜びを伝えているかのように輝いています。

聖パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリ15)と述べています。

 ところで、どのように復活を信じているのでしょうか。学問的で抽象的な知識としてではなく、日常の生活の中で具体的にどのように実感するのでしょうか。

 聖パウロが言うように、この世の生活でキリストに望みをかけているだけ、すなわち私たちの復活は死んだ後に復活することを希望しているだけでは惨めな者であるということです。そうではなく、あの世の復活の現実が、この世において既に始まっていることを信じ、復活信仰を生きることが重要なのです。

 それは例えて言えば、トンボのまだ醜い幼虫が次第に少しずつ準備され、いつの日か脱皮して、美しい羽を持った成虫に変化し、羽を広げて大空に飛び立つように、私たちも溢れるほどの神の豊かな恵みを受けて、利己的で、わがままな人間が次第に変容してゆき、神の御旨を生きる人間へと変わるのです。このように少しずつ復活の体験をさせてくださるが、まだ完全な復活ではありません。しかし、この世にあって既に復活が始まっているのです。

 どのようにその変化を実感するのでしょう。私たちの目は、今まで気がつかなかったことに気がつくようになり、心の目が開かされて、見えなかったものが見えるようになるのです。人々の悲しみ、叫びが聞こえる耳になり、深い理解と共感を抱くことができるようになり、ゆるし合い、愛し合うようになるのです。しかし、そのように変えられてゆく道のりは、自分の努力だけではなく神の恵みに受け、生かされて歩む道です。多くの苦難や苦しみを越えながら、それが実現してゆくのです。キリストの教えに忠実に生きることは大変なことですが、しかし、この変化してゆく過程は、神の恵みによって完全な復活に至るための道程なのです。

 三歳のとき特発性脱疽になり両手両足切断という非業の運命を受けた中村久子女史(1897-1968)は、幾多の苦難を乗り越えて生き抜いた作家であり、宗教家(仏教徒)でした。絶望の淵から希望を見出した彼女は晩年、次のような言葉を遺しました。「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのです。」


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