「教会だより」の巻頭言 1月号

 

有田の大イチョウ(大公孫樹)2024.12.08

この世の旅人、巡礼者

カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

新年あけましておめでとうございます。今年は、25年に一度巡ってくる聖年に当たっています。教皇様は、1224日、降誕夜半ミサの時、聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を開いて聖年の始まりを告げました。聖年のテーマは「希望の巡礼者」とし、大勅書「希望は欺かない」を発布されました。主の再臨を待ち望み、その良き準備をする者にとって、新年は多くの恵みがもたらされる年となるでしょう。 

世界で起きている二つの戦争だけでなく、国内でも悲しい事件が毎日のように起きています。近年いじめを苦にした子供の自殺が多いのを嘆きながら、希望を失った子供たちは人生をリセットするような感覚で自分の命を絶ってしまうと評する人がいます。パソコンをリセットするかのごとく、簡単に人生のやり直しができるとでも思っているのでしょうか。

しかし大人も、日本の平均寿命が延びた時代とあって「PPK」で死にたいと願う人が増えているとのこと。PPKの意味は、英語の頭文字かと思いきや、「ピンピンコロリ」の頭文字だとか。その気持ちを詠んだ川柳「散るなんて知らぬが仏花盛り」は今日の世相を表しています。

このような思いの背景には、苦しみたくない、人に迷惑をかけたくないという思いがあるからでしょう。もし真剣にそのように思うようになったのなら、命に向き合う姿勢が問われていると思います。現実は、病に倒れた後、長い間、周りの人に介護されながら生きなければならないこともあります。健康な者が健康でない者を介護するといっても、それは多くの場合、肉体的に、より健康な者がそうでない者の面倒を見ることを意味しています。ところが肉体的に健康といっても果たして心も魂も含めた人間全体として健康な人がいるでしょうか。体がどんなに健康といっても、原罪に傷ついている私たちは自己中心的な生き方に傾きます。そのことの故に人間関係を傷つけ、あるいは傷つけられます。そして、お互いに苦します。

神さまの立場で考えると看病するといっても、不健康な者が不健康な者を看病しているにすぎないのです。この関わりを通して、どんな人も本当に健康になるために癒しが必要です。お互いに関わりを深めることで、思いやりの心や、命の尊さを学ばせていただくのだろうと思います。子供も大人もこの関わりを忌み嫌ったり、避けたりしないで、与えられたものとして受け、お互いに神に癒されるプロセスにさせていただき、人間として成長したいものです。神さまが与えてくださったもので、意味のないものは何一つないのですから。 

イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マコ 2:17

教皇さまの言葉にも「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることよりも難しいものです。」とあります。

キリスト者は絶えず希望を持ち続け、神に育てられながらこの世を生きる旅人であり、巡礼者なのです。


「教会だより」の巻頭言 12月号

北山ダム 2024.11

ちょうの御よそおい

カトリック唐津教会 主任司祭  江夏國彦

 天使はマリアに言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」ルカ1:35

 クリスマスおめでとうございます。仏教に比べれば、日本でのキリスト教の歴史は短いですが、今ではクリスマスは日本の社会にすっかり溶け込んでいます。多くの家庭でクリスマスケーキやプレゼントを交換します。そして喜びの雰囲気に包まれます。

  1614年に徳川家康が禁教令を発布して以来、250年以上にわたって長崎県松浦郡の生月、外海、五島などでキリスト者たちは隠れキリシタンとして潜伏していました。迫害によって多くの殉教者も出しました。聖書さえ持つことが許されなかった彼らは、手作りの聖書「天地始之事」を著し、信仰の支えとしました。マリアが身ごもった事、そして男の子を出産した次第が書かれています。その中で、おとめ=びるしん、聖=さんた、マリア=丸屋、聖霊=ちょうの御よそおい、と言い表しています。

 ところでアサギマダラという「渡り蝶」は、春になると北上して函館まで、秋になると南下して喜界島まで飛んでゆくことが知られています。この蝶の観察や調査研究が盛んに行われています。インターネットが発達した時代とあって、学者や専門家ばかりでなく素人や子供たちまでが参加して、今や調査のために日本全国にネットワークが出来上がっているそうです。偏西風に乗って移動するのだろうと考えられていますが、小さい蝶が、どうして2千キロメートル以上も移動することが可能なのかまだよく解っていないのです。 

 アサギマダラの蝶のように神の霊である聖霊は風に乗ってやってきて処女マリアの胎内に宿ったと記しています。隠れキリシタンが書き残した聖書、「天地始之事」ではクリスマスのことを「御身のなたる」といいました。その箇所も想像たくましく描かれています。

 馬屋でお生まれになったその日は大雪の降る寒い夜であったので、馬と牛が幼子の両側から息を「ハー、ハー」と吹きかけて暖めてくれたそうです。馬小屋を清め、赤飯を炊いて、生活のために大事な機織の道具まで薪として燃やし、産湯を沸かしたとあります。

 聖書の中では、聖霊は風や鳩の形にたとえられていますが、隠れキリシタンは蝶にたとえたのです。神の救いの御計画の神秘をこのようにイメージした隠れキリシタンたちの信仰は、正統信仰からすれば、逸脱した記事であっても、当時の迫害によって聖書を持つことが許されなかった中で、風土と生活様式に根ざした記事となりました。素朴で純粋に信仰に生きてきた彼らの信仰の逞しさを感じさせられます。

 処女マリアからお生まれになった幼子の「微笑み」が荒れすさんだ人々の心を和らげ、真の正義と平和、そして喜びがこの地上にもたらされますように。



「教会だより」の巻頭言 11月号

環境芸術の森(唐津市)

 

死者との再会


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 死者の月を迎えました。近しい人を亡くすと、誰でも自分の死を思い、いつの日か再会できることを希望します。死者の月に今年から納骨室に納骨されている方々だけでなく、各家庭の死者を弔うための「合同慰霊ミサ」をします。

 私たちはこの世を超えた世界を具体的に知りませんが、キリストの言葉を通して想像します。そこがどんな所か解りませんが、必ず再会すると信じています。その日を迎えるには、譬えると、あたかも幼虫が脱皮を繰り返しながら、最後は羽化して成虫になって大空に飛んでゆくように、私たち自身が質的な変化を遂げながらその日を迎えなければならないようなものです。

  キリストの譬えでは「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」と言われました。これまでのものとは質的に完全に異なる、新しい次元に属するものであるということです。自分が主の新しいぶどう酒を入れる新しい革袋となるためには、一度徹底的に古い皮袋である自分が引き裂かれる必要があるのです。古い革袋のままで安住することはできません。主ご自身が十字架の上で肉を裂かれ血を流されたように、私たち自身も「引き裂かれる」こと、苦しみに与り、古い自分がキリストと共に葬られなければなりません。

「あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:12)

 主は新しいぶどう酒を満たすことができるように、古い革袋を新しい革袋へと私たちを再創造してくださいます。それが私たちの復活です。そのことは既に私たちのうちに始まっているのです。つまり、幼虫の譬えでいうと、私たちは、既に脱皮を始めているのです。やがて天国へ飛び立てる羽が生えるでしょう。

  アメリカ合衆国の先住民族の言葉に「今日は死ぬのにはもってこいの日だ(Today is a good day to die)」というのがあるそうです。この言葉にならって、「今日はキリストにおいて死ぬのにはもってこいの日だ。そしてキリストにおいて復活するのにもってこいの日だ」という思いで信仰の道を歩みたいものです。

私たちは死者との再会を希望しますが、そもそも自分は、あの愛する人と本当に再会できるのだろうかという不安がつきまとうかもしれません。或いは逆に、あの人とだけは再会したくないという人がいるかもしれません。だとすれば、今から和解しておきましょう。

死者のことを思い、死者のために祈ることは、自分のためにも祈ることになるのです。主の死と復活を生きる私たちが、新しい革袋にされて、新しい命を生きる者となれるように、共に祈りましょう。 



「教会だより」の巻頭言 10月号



苦しみの中でも喜び 


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

キリストの最初の弟子たちは、色々な困難に遭遇しましたが、それを乗り越えることができたのは、ある日、生き方が決定的に変わるほどの体験をしたからでした。

 イエスが、ある時ペトロに次のようにお尋ねられました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロは「あなたは生ける神の子、メシアです。」と答えました。イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた後、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。イエスは振り返って、ペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ833

キリストの招きに答えて弟子となり、寝起きをともにしていたペトロでしたが、当時はまだ、キリストをよく理解できていませんでした。「あなたはメシアです」と答えても、政治的な王、偉大な預言者としてのイエス理解でした。だから主が、苦難を乗り越えて喜びに入られることも、十字架を通して復活されることも想像すらできなかったのです。しかし、この世でのさまざまな苦しみを乗り越え、復活されました。復活されたキリストに出会って、弟子たちは初めてキリストが誰であるかという正しい理解が得られ、その後の生き方が根本的に変わりました。

 弟子たちは、キリストの死は私たちの救いのためであったこと、キリストの歩んだ道をたどれば、自分たちもキリストのように復活することを知って、そのキリストの愛に応えたい思いと、大いなる栄光への希望が湧き、弟子たちの心は命を捧げるほどに高揚し、変えられたのです。

いつの時代であっても、私たちはこのような体験をすることができるのです。主は、十字架上の死から復活へと通じる道を示してくださったのです。その道は苦しみが必ず伴うものですが、苦しみの中にある時にも、すでに喜びを見出せる道でもあります。何故ならどのような苦難も、すでに栄光を得たかのような確信と希望のうちに歩み、愛に応えようとする道だからです。

聖アウグスティヌスは、次のように言いました。「愛は、最も困難なこと、最も苦しいことを、全く負いやすく、その重荷を無にします」と。

殉教者たちが自分の死を目前にしながらも神を賛美しながら信仰を証しできたのは、十字架の向こうに、あたかも既に栄光の世界に入ったかのように、しっかり復活を見据えて希望していたからです。わたしたちも苦悩の淵にあっても栄光を見つめることができるのです。苦しみの中にありながら喜びを、肉体の死へ向かう中にあっても永遠の命を生きることができる信仰を得ているのです。

「教会だより」の巻頭言 9月号



敬老の日に当たって 


カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦


<老人の八つのつぶやき>

 

私のよろける足どりとふるえる手を

理解してくれる人は幸いです。

 

私の耳は人のいう言葉を聞きとるためには、

大きな努力が必要であることを

わかってくれる人は幸いです。

 

私がコーヒーをこぼしても、かわりない

平静な顔をしてくれる人は幸いです。

 

「今日その話を二度もききましたよ。」と

決して言わない人は幸いです。

 

楽しかった昔をとりもどす方法を

知っている人は幸いです。

 

私は愛されており

ひとりぼっちでないことを

教えてくれる人は幸いです。

 

私には十字架を担う力がないことを

わかってくれる人は幸いです。

 

愛情深く、人生の最後の旅路の日々を

なぐさめてくれる人は幸いです。


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<敬老の日の川柳>

 

 ①  オレオレに 亭主と知りつつ 電話切る

 ② タバコより 体に悪い 妻のグチ   

 ③  デジカメの エサはなんだと 孫に聞く

 

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 <笑い話を二つ>

 

① 老神父との問答

 ある信者が、老神父に尋ねた。

 「神父さま、神さまは本当にいるのでしょうか?」

 すると間髪入れずに「イエス」と答えた。

信者はさらに尋ねた。「ではお釈迦さまは?」

老神父は、すました顔で

「そのような、よその宗教のことは、ホットケ」と。



 ② ベビー用品を求めて

ある日、老人がデパートへ出かけた。

すると、一階の案内所で

一人の若い男がやって来て、忙しそうに案内嬢に尋ねた。

「あの・・・赤ちゃん売り場ってどこですか?」

大勢の客に対応していた案内嬢は、

「ハーイ七階にございまーす。」と機械的に答えていた。

すると近くにいた老人が笑いながら、

「最近のデパートは赤ちゃんまで売っているんだ。」とつぶやいた。

 


「教会だより」の巻頭言 8月号



夏の思い出

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 司祭になる前の段階、助祭の時、夏休みに、体験学習のためフィリピンへ派遣されたことがありました。40年以上前のことですが、私にとっては、思いもかけない初めての海外旅行でした。そのときの一つの忘れられない思い出があります。

 文化がちがうと食べるものもこんなにちがうのかと驚きました。向こうの人が、バルゥートというアヒルのゆで卵をおいしそうに食べているのをしばしば見かけました。フィリピンで働いている日本人の宣教修道女たちも普通に食べていました。私にも何度も勧められましたが食べられず、いつも断ってばかりいました。というのはこの卵は、授精して、もうすぐ雛になる寸前のものを茹でたものだったからです。フィリピンでは、お祝いの時などでよく出る料理なのです。

 ところが、マニラからレガスピという所にバスで旅行中、同乗者のあるフィリピン女性が、このバルゥートを差し出して、食べるようにしきりに勧めるのです。例によって断ろうとしたら、「私たちが好物としているこのバルゥートを食べないなら、あなたはフィリピン人を軽蔑したことになります。」と言われるやら、「あなたはそんなに臆病者ですか。」と言われる始末。そこまで言われたのでは断る訳にもいかず、弱音をはいては、日本男児の名がすたるというわけで、とにかくまず受け取りました。

 すると今度は食べ方を教えてくれました。躊躇していると、岩塩を少し振りかけて食べるのだと言って促され、私は意を決して、しゃにむに食べました。するとこの女性、「よく食べられましたね。感心しました。」と、にっこり笑ってほめてくれました。でも最後の言葉が気にくいません。「食べるとき、貴方は目をつむっていましたよ。」これには少々しゃくにさわりましたが、なんだかその時から急にフィリピン人に親しくなれたような気がしました。

 その後、司祭になってから、多くのフィリピン人と親しくなりました。特に群馬県で司牧に当たっていたときは、日本人と結婚したフィリピン人も多く、文化的な違い、国民性の違いのために問題を抱えている信徒が少なからずいました。彼らのためにフィリピンでの体験学習は、とても役立ちました。

 バルゥートのほろ苦い体験が、人々ともっと親しくなれたという喜びに変わったように、文化の違いを乗り越える体験は、人々との交わりと理解をより深める事を教えられました。

 滞日、あるいは在日外国人が多くなった日本の社会にあって、これからは、ますますお互いの違いを乗り越えてゆかなければなりません。そのために幾多の困難が待ち受けているでしょう。

 しかし、違う文化に育った者同士が、共に生きることは、お互いに学ぶことが多く、またより豊かな文化を築くことだと思います。一つになるとき、喜びも文化的豊かさもいただくのです。


 

「教会だより」の巻頭言 7月号



 今は恵みの時

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 イエスが「時が満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と宣べることによって、福音宣教を開始されたとあります。この「時」は、時間の長さを表す時ではなく、出来事との関わりで時間を把握したときに使われる言葉です。ここでは、神の業である救いの計画の中で、起こるべき相応しい時期という意味です。最も適切な時期に、神の救いの計画が現実したという意味です。

 そして数年後に、イエスは宣教活動を終えて、十字架上の死を遂げられると「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」(使徒2:24)とあります。これは全く新しい時代の到来を告げるものでした。したがって、新しい時代にふさわしく生きるために、私たちの生きる姿勢も変えなければなりません。この世の事だけにしがみつくような生き方であってはなりません。

 聖パウロは、キリストの贖いの業によって「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)であると言い表しました。「時」が満ちて、新しい時代に入ったこと、すでに神の国は到来し、その建設が今も続けられている。しかし同時に、この神の国の完成は、なお未来にあることも強調しています。(ピリピ3:10‐12)

 神の国は「すでに」到来しているとともに「まだ」完全に実現されていません。それはキリストの再臨によって実現されるものなのです。

 時間の長さを表す時が、あるときは慰めであったり、あるときは悲しみであったり、喜びであったり、苦しみであったりします。しかし、時間は、時々刻々と過ぎ去るものです。だからわたしたちは、時間を最大限に生きながら、同時に時間を超えた「永遠」の次元に生きる者として、主を仰ぎ見、主と共に生きるのです。

「永遠」の前では人間の一生は一瞬のごとく、宇宙万物の中では、人間はちっぽけな被造物の一つにすぎず、全知全能の神のみ前では、人間は無知蒙昧な罪人にすぎません。

 しかし、主に召され、主と共に生きる者は、時間を生きる者でありながら、同時に永遠の次元にも生きる者です。このことを「永遠の今を生きる」ともよく言われます。もし、私たちの恵みの時、解放の時、救いの日は、いつですかと聖パウロに問うなら「今でしょ」と応えるでしょう。

 このような生き方を更に別な言い方をすれば、この世に在り、この世の者として生きながら、すでに神の国に生きているかのように、この世を生きることです。

この世へのこだわりや執着心の強い私たちは、パウロに倣って、主への感謝と喜びのうちに、このような新しい生き方ができますようにと願わずにおれません。


「教会だより」の巻頭言 6月号



考える葦

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

哲学者であり、数学者であったパスカルは、思索に満ちた彼の作品『パンセ』という著書の中で「人間は考える葦である」と述べたことはあまりにも有名です。人間は折れやすい葦にすぎない。自然の中でも極めて弱い、葦のような存在です。しかし、人間は考える力をもっている葦であるとパスカルは述べたのです。

 

それにしてもパスカルが、「葦」という植物を例に挙げたことは興味あるところです。パスカルは熱心なカトリックの信徒であり、聖書に精通していた思想家でした。「葦」を例に挙げたのは聖書に由来していることは明らかです。聖書には、折れた葦の杖(イザヤ36:6)、葦を折る(マタイ12:20)、葦の棒(マタイ27:29)などが書かれています。

 


人間は弱さや欠点があるために、容易に悪に誘われて失敗したり、過ちを犯したりするからです。世界の各地で起きている戦争、身近な社会で起きている殺人事件や詐欺事件、私たちが犯す小さな罪、人間の現実を見つめると私たちは容易に折れてします葦のようです。私たちは、弱さ故に陥ってしまう罪の悲惨さを自覚せざるを得ません。しかし、この現実を超える世界や、神の存在を思索する力を持っています。

 

人間の悲惨さとキリストによる救いは『パンセ』の中心テーマの一つでした。人間が、どんなに悲惨な状況にあろうとも「彼は折れた葦を切り離さない」(マタイ12:20)とあります。キリストは、弱さを身に帯びた罪深い人間を決して見捨てることのない救い主なのです。

 

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ836)ここで言ういのちは、永遠の命です。救いの世界における命です。

 

考える世界、思索する活動は無限の広がりがあります。常識を超えた領域まで含みます。合理性の制約もありません。時間的空間的制約もありません。様々なことを思索する中で、キリストのことばと行いが、本当に私たちの心に響くものがあるのでしょうか。新しい気づきがあるのでしょうか。

思索することによって、本当の人間の本性を深く自覚することができますように。そして人間の悲惨さを超える救いの道へと導かれますように。このように祈りながら思索することは、人間としてふさわしい行為であり、最も尊い行為だと思います。


「教会だより」の巻頭言 5月号

 

衣干山の桜

天からのしるし

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

宇宙の神秘や人間同士の複雑な関係、歴史や人智を越えた出来事など自然は超自然のしるしとなるのです。何故なら、しるしは何かを指し示し、超越者の存在を眺望させるものだからです。勿論、信仰心があってのことで、全てを合理的理性で理解しようとする人にとっては、これらのしるしは学問の対象でしかありません。しかし信仰あるものは、これらのしるしを通して奥に秘められた偉大なる方の存在を感じ取るのです。

ところで聖書で使われる「しるし」とはどのような意味でしょうか。しるしは抽象的なものの象徴であるか、あるいは人類の救いのためになされる前表としての不思議な業をいいます。「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。」(マルコ8:11)とあります。これは、僅かなパンと魚で数千名の人々の空腹を満たされた奇跡がなされた後のことでした。これほどの大きなしるしを目撃していながら、まだ天からのしるしを求めるファリサイ派の人々に対してイエスは「まだわからないのか、まだ悟らないのか」と嘆いておられます。

大事なことは、しるしの意味するところを理解することです。パンと魚が次々と増えていったという不思議さ、その現象に心を奪われて、そのしるしを通して理解すべき最も大事なことをファリサイ派の人々は見過していたのです。あんなに多くの人々を養うことが出来たイエス・キリストは、真のパン、霊的な命を与える方であることを示していたのです。パンが増えた奇跡の出来事は、秘跡のパンである御聖体の前表でした。従ってこのときのしるしは、イエス・キリスト御自身です。

「まだ悟らないのか」とは、信仰を求めておられる言葉です。そして「信じる」ということは人格的な行為です。私という、全存在あげての態度決定であり、人間の生きる姿勢です。その人の人生観や生き方に決定的な影響を与えるのです。しかし、悟ると言っても、それは自分の考えや体験からくる自分の悟りではありません。神から与えられるものです。神のみことばに照らされて悟らせていただくのです。

旧約聖書も新約聖書もその中心テーマは「イエス・キリストは誰か」ということでした。そのことがはっきりと現れたのは「あなたたちは私を何者だと言うのか」とイエスが問われたときでした。そのときペトロは「あなたは生ける神の子、メシアです」と信仰告白しました。これはペトロのイエス・キリスト理解、彼の悟りでした。イエスはその答えをほめられたのでした。しかし、その答えは人間の知恵によるのではなく、天の父から与えられたものであるともイエスは言われたのです。

詩篇32に次のように書かれています。「私は、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。私はあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」私たちは、自分の人間的な悟りを捨て、神のみことばを通して、また現代世界や自然界に起きるしるしを通して、神の御旨を悟ることが必要なのです。その恵を願いましょう。


「教会だより」の巻頭言 4月号

 


突然、復活された主が見えなくなった

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
 
 教会暦は今、復活節を迎えています。復活に関しての聖書箇所は沢山ありますが、エマオへの旅人の話(ルカ24:13-35)は不思議な事を述べています。そこには見落としがちな重要なことが含まれています。

 二人の旅人は、3時間近く復活されたイエスと会話をしながら 歩いていたのに、その方がイエスだとわからなかったとあります。大変不思議なことです。それ以上に、イエスは夕食に招かれてパンを分け与えられたとき二人の旅人は、やっとイエスだと気がついたのです。しかし、その時、復活したイエスの姿は見えなくなったとあります。なんと、不思議なことでしょう。
 
 ところで、この復活の記事をどのように受け止めたらいいのでしょう。どうして急に見えなくなったのでしょうか。確かに、姿が見えなくなったとルカは記述していますが、存在しなくなったとは言っていません。多分、すでに復活の主と一つになったこと、復活の信仰を自分のものにすることが出来たことを意味しているのだと思います。そうなると、肉体の目で見えるか、見えないかは、もはや重要なことではないのです。復活した主が確かに私たちと共にいてくださるという信仰を得たら、目で見て主と一つになるのと見えなくても信仰において主と一つになることは同じことなのです。
 
 キリストを知る重要な二つの方法は「聖書に親しむことにより、キリストを知る」、「パンを裂く式に参与して、キリストを知る」ことです。二人の旅人はエマオへの道中、ずっとイエスに、聖書に書かれていることについての説明を受けていたとあります。その時、彼らは心が燃えていたのです。パンを分け与えられたとき、初めてイエスだと気が付きました。聖書の説明を受けたときも、パンを分け与えられたときも、どちらも私達の努力の報いではなく、神の恵みです。そしていずれの時も心は喜びで満たされ、共にいてくださる方への確かな信仰へと導かれたのです。

 食事を共にしてくださった時、復活されたイエスからパンを頂いて、突然イエスが肉眼の目で見えなくなっても、二人の旅人は喜びに満たされていたように、わたしたちが、ミサの中で聖体拝領をするとき、イエスと心が一つになったことで喜びに満たされているかが問われているのではないでしょうか。

 聖体拝領は、信者の努めを果たして得られる安堵感のようにでもなく、心の栄養剤を頂いて癒やされるかのようにでもなく、拝領するたびに、復活の主と心が一つなった喜びがあることが重要なのではないでしょうか。勿論、復活の主と心が一つになるのは、この世においては瞬間的なことでしょうが、その出来事は、将来、私たちの完全な復活の秘儀に与るための前触れでもあるのだと思います。その意味で、わたしたちは、既に主の復活の秘儀に与り始めているのです。わたしたちに先立って、復活してくださった主に感謝しましょう。
  
  主はまことによみがえられた。 アレルヤ !

「教会だより」の巻頭言 3月号

 


主の復活おめでとうございます   

主任司祭 江夏國彦

  今年は、3月に復活の主日を迎えます。自然界も、寒い季節を耐え抜いて、春の喜びを伝えているかのように輝いています。

聖パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリ15)と述べています。

 ところで、どのように復活を信じているのでしょうか。学問的で抽象的な知識としてではなく、日常の生活の中で具体的にどのように実感するのでしょうか。

 聖パウロが言うように、この世の生活でキリストに望みをかけているだけ、すなわち私たちの復活は死んだ後に復活することを希望しているだけでは惨めな者であるということです。そうではなく、あの世の復活の現実が、この世において既に始まっていることを信じ、復活信仰を生きることが重要なのです。

 それは例えて言えば、トンボのまだ醜い幼虫が次第に少しずつ準備され、いつの日か脱皮して、美しい羽を持った成虫に変化し、羽を広げて大空に飛び立つように、私たちも溢れるほどの神の豊かな恵みを受けて、利己的で、わがままな人間が次第に変容してゆき、神の御旨を生きる人間へと変わるのです。このように少しずつ復活の体験をさせてくださるが、まだ完全な復活ではありません。しかし、この世にあって既に復活が始まっているのです。

 どのようにその変化を実感するのでしょう。私たちの目は、今まで気がつかなかったことに気がつくようになり、心の目が開かされて、見えなかったものが見えるようになるのです。人々の悲しみ、叫びが聞こえる耳になり、深い理解と共感を抱くことができるようになり、ゆるし合い、愛し合うようになるのです。しかし、そのように変えられてゆく道のりは、自分の努力だけではなく神の恵みに受け、生かされて歩む道です。多くの苦難や苦しみを越えながら、それが実現してゆくのです。キリストの教えに忠実に生きることは大変なことですが、しかし、この変化してゆく過程は、神の恵みによって完全な復活に至るための道程なのです。

 三歳のとき特発性脱疽になり両手両足切断という非業の運命を受けた中村久子女史(1897-1968)は、幾多の苦難を乗り越えて生き抜いた作家であり、宗教家(仏教徒)でした。絶望の淵から希望を見出した彼女は晩年、次のような言葉を遺しました。「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのです。」


「教会だより」の巻頭言2月号


キリスト者の歩み

カトリック唐津教会  

 主任司祭 江夏國彦

 2月になるといつも思うことは、日本の信仰の礎を築いてくれた日本26聖人殉教者のことです。記録を読むと神の恵みが強く働いたとしか言いようがない出来事がいくつも書かれています。命を賭けて信仰を貫き通した人々がいることを思うとき、わたしたちは殉教の恵みを受けることはないにしろ、どうして現在もキリスト者として生きているのか、その確かな理由を胸に秘めているのか問われれいるような思いになります。


 最初のキリストの弟子たちがどのようにて弟子になったのか福音書からわかることは、まずキリストが先に彼らを呼び出しました。普通は師弟関係ができるとき、弟子になりたい人が先に師に願って弟子にしてもらうのが常ですが、キリスト者としての召命は、いつもキリストが先に呼び出すということです。私たちが選んだのではなく、キリストが私たちを先に選んだということです。私たちキリスト者は、いつも心の底にキリストが私を呼んでくださったという思いがありますかと問わなければなりません。


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」という言葉の原文の意味は、回心、つまり心を神に向けることです。これは一生涯のことであって、生き方が変わることを意味しているのです。単に道徳的な反省を意味する以上に、全身全霊で「神に立ち帰る」ことを表す言葉です。回心しない者は、ついて行くことができないのですが、しかし、回心は始まりであって、弟子たちも長い期間をかけて、回心の道を歩みました。私たちも絶えず回心の道を歩んでいるか問われています。

 さらにキリストは弟子たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。イエスの召し出しは、ついて行くことが重要なのです。資質や才能があるから、神は私たちを召し出したのでのでもなければ、弟子になるのに相応しいからでもありません。ただ神のみ旨によって、すなわち神の計画の中で、呼び出すのです。そこに神秘さがあります。最初の弟子たちも、特別優れた人間であったからではなく、皆ごく普通の人であり、性格もいろいろでした。しかもキリストの教えは、知識を身につければ解るというようなものではなく、キリストと共に生きることによって少しずつ分かってくるものだと思います。 その意味で、教会の共同体と共に生活することが重要です。


 ただひたすらに忠実にイエスについて行けば、キリストご自身が導き、育て、使命を与えてくださるでしょう。そうすれば、わたしたちの信仰生活を通して、その生き様が人々の証しとなり、同時にその事自体が「人間をとる漁師」良き宣教者ともなっているのです。