遅まきながら
カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
随分、月日が経ってから自覚したり、気づかされたりするのが私たちの人生です。病気になって、気づく健康のありがたさ、愛するものを失って初めて自覚する言葉の意味深さ、無駄のように思えていたあの時の苦労があったからこそ、今の自分があると気づかされること、等々。
様々な精神的な遍歴を経た聖アウグスチヌスが、深い神との交わりに辿り着いた心境を次のように述べています。「古くして新しい美しさよ、私があなたを愛したのは、あまりにもおそすぎた。あなたは、実に、私のなかに居られたにもかかわらず、私は外に居て、あなたを外に求めていた。そしてあなたの造られた美しいものたちのなかに、身を投げ入れて、醜い姿となっていた。しかも、あなたは、私とともに、居られたが、私は、あなたとともには、居なかった。私は、長い間、それらのものに引き止められて、あなたから遠くへだたっていたが、しかしそれらのものも、あなたのなかに、存在するのでなければ、存在することも出来なかったのである。あなたは私に呼びかけられた。叫ばれた。そうして、私の閉ざされた耳を開いてくださった。あなたの光がひらめき輝き、私の見えない目を開いてくださった。あなたはかぐわしい香りを立てられた。私はそれを吸いこんで、あなたをあえぎ求めた。あなたを味わって、私は、いま、あなたに飢えかわいている。あなたは私に触れられた。私はあなたの安らぎのうちに安らごうと今、私の心は燃え立っている。」(告白録第10巻27章より)
わたしたちが日々主イエスに祈る時、イエスとの対話がもう始まっています。コロナと共に生きる時代に入ったからこそ、主イエスとの対話を深めることが、私たちに最も必要としていることだと思います。私たちの交わりは、どんなに愛し合っている者であっても理解し得ない部分が残るのです。心の深みまで入り込めない部分があるのです。入り込んで欲しいと願っても入り込めません。しかし、主イエスはその深みまで入り込み、癒し、渇いた魂を潤してくださるのです。信仰に生きる人とは、その深い交わりを神とも人ともしたいと願う人だと思います。この交わりにこそ、真の平安と魂の安らぎを得るのだと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿