「教会だより」の巻頭言 11月号

 


苦しみを共に担ってくださる主

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

  11月は死者の月、人の最期は、その生涯を振り返る時でもあります。私たちは、死者たちの生き方、死に方から、何かを学ぶことができるのではないでしょうか。なかでも殉教者たちの死は、私たちに信仰の大いなる力を教えてくれます。

 

殉教者たちに共通しているのは、信仰のゆえに殺されたこと、殉教は栄誉と受け止めたこと、そして自分の思いや願いではなく、神の御旨にすべてを委ねて最後まで希望を持って生き抜いたことです。

 

 しかし殉教は誰もが望めば与えられるものではありません。今年、アシジの聖フランシスコの帰天800周年を迎えています。聖フランシスコは、キリストに似たものになり、キリストのように生き、願わくは、キリストのために殉教したかったのですが、願いは叶えられませんでした。しかし、晩年に聖痕を受けるという形で、キリストの受難と死に深く与りました。

 

 信仰の自由が認められている今日の私たちの社会では殉教と言うことは起こりえないかもしれません。しかし、私たちは自分の弱さ、罪深さのゆえに、生涯通して神の御旨を生きることは、難しいのです。だからイエスは「私の軛を負い、私に学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。

 

 軛(くびき)はもともと、牛が首につけて牛車を引っ張るためのものです。主の軛と一緒につながれて、共に重荷を担うことです。すなわち、生きることの苦しみ、重荷の全てを主と共に、主に委ねて生きることを意味します。そうすれば私たちの重荷は軽いものになるでしょう。殉教者たちは、その生き方を通して、神の愛を最後まで証ししたのです。

 

イエスの生涯は、私たちの重荷を共に担い、平安を与えつつ、救いへと導くことでした。

聖アウグスティヌスは愛について「愛は、最も困難なこと、最も苦しいことを、全く負いやすく、その重荷を無にします」と述べています。これは、真の愛に促され、与えられた重荷を主と共に担って生きた人の言葉だと思います。

 

聖パウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ 1:21)と述べました。聖パウロにとって、生きることはキリストと結ばれ、キリストの愛を生きることだったのです。そして死は、キリストとの交わりが完成することへの希望でした。

 

私たちも、今日という日を、どう生きるべきかを自問しつつ、どんな時も、主の軛にしっかり繋がり、新しい命への希望を持って、自分を主に委ねる生き方ができますように。


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