人権回復の戦い
カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦
群馬県の草津に栗生楽泉園というハンセン病の療養所があります。30年以上前、毎月一回、そこでミサを捧げていた時代がありました。ハンセン病回復者、桜井哲夫 氏から頂いた詩集「ぎんよう」から一つの作品を紹介します。この本によると17才の時に、栗生楽泉園に入所しました。家族からも国家からも見放され、名前も変えられ、まるで生きながら死んだ者のような扱いを受けて、隔離されたのです。29才のとき、この病のため失明しました。手足の指を失い、皮膚の感覚も失い、唯一感覚が残された舌で、点字の本を読み、詩を作り、また聖書に親しみ、60才を過ぎてキリスト者になりました。創作した詩を口で言って代筆、代読してくださる方の助けを借りて、沢山の詩を作りました。
次の詩は、若い頃に療養所内で結婚し、授かった子供を堕胎させられ、ホルマリン漬けにして標本にされたことを65才になった時に書いた詩です。
真理子曼陀羅 桜井哲夫 作
真理子が泣いています
狭い棚の上で
真理子は療養所夫婦の間に生まれたから
六ケ月目に手術を受け
標本室の棚の上に置かれました
二十六歳で真理子の母は死にました
盲目の父がいまも歌う子守唄はかすれて
この子には聞こえない
お腹が空いたと真理子は泣きます
怖いと言って真理子は泣きます
詩集「津軽の子守唄」を手にした保母さんが
子守唄を歌ってくれました
若い看護婦は
おっぱいを沢山呑ませてくれました
真理子は泣き止みました
津軽の子守唄を歌う空には
菩提の華、朝鮮朝顔曼陀羅の華が開きました
赤い林檎を手にした真理子は笑っています
開いた曼陀羅の傍らで
笑った真理子は曼陀羅
空に開いた曼陀羅
真理子曼陀羅
真理子曼陀羅
真理子曼陀羅
1996年、隔離政策を目的とする「らい予防法」は廃止されました。そのときある回復者が「カトリックは我々の世話はしてくれたが、らい予防法が廃止されたとき我々と一緒に喜んでくれなかった」と述べたそうです。魂の救霊と言う立場から、司牧的世話をし、慰め、また病の治療に多くのカトリック関係者が当たりました。しかし、患者を気の毒な客体としての視点で関わるのではなく、彼らを最も苦しめていた「らい予防法」による差別、つまり人権の立場で、差別の苦しみから解放されるべき主体として一緒に戦いに関わって欲しかったのです。私を含め、日本のカトリック関係者はこの視点からの関わりが薄かったことへの深い反省がありました。「我々は、らい予防法の犠牲者であっても、ライの犠牲者ではない」という元患者の言葉には、人間の尊厳と人権回復の強い願いが込められています。この戦いは、現在も完全に終わったわけではありません。
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