「教会だより」の巻頭言 3月号

カトリック唐津教会の玄関正面のステンドグラス


思いやり

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 高齢化社会に住む私たちの身の回りでは、老人が老人を介護する老老介護や親が病気のために青少年が介護するヤングケアラーなど厳しい現実があります。さらに認認介護の例も増えているとのことです。家族だけでなく、地域の人々をも含めた思いやり、お互いに助け合う心がますます必要とされています。一方では、90歳近くなってもかくしゃくとして生きておられる方々も増えています。

 老いは恵みであると思います。人間味ある高齢者との交わりは、家族の深い絆を育みます。そして、このような心温まる交わりは若い世代の人々を思いやりのある人間に育てます。また、隣近所の情けを受けるとき、それがどんなに小さな親切であろうと感謝せずにおれません。苦しみを共有して生きることは、真の友を得ることでもあります。これらは全て恵みです。私たち一人一人が自分の老いとどのように向き合うのか、また高齢者たちとどのように関わるのか何時の時代も問われているのです。

 数年前に福井県若狭町が行なった「認知症一行詩全国コンクール」で優秀賞に選ばれた作品で「父の好物並べ 嬉しそうに帰り待つ母 写真の中で父さんも笑ってるね」(埼玉県・小柳恭子)は、人の心を温めてくれます。核家族化が進むなか、世代間のコミュニケーションが乏しくなっています。だんだん世代を隔てての共通の話題が乏しくなることも原因でしょう。しかし、これらの一行詩に読み取れるように、思いやりの心があればすばらしい交わりが出来ている家族もあるのです。

 若者はお年寄りから人生の知恵を学びます。十分に話せなくなっても言葉や行為を超えて、そばにいてくれるだけで大きな影響を与えてくれるのです。お年寄りが失敗しても間違っても、笑いのうちに人々の心を和ませてくれます。このように家族にとっても地域社会にとっても、お年寄りはすばらしい存在なのです。

 イザヤ書に主の慰めのことばがあります。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3-4)このみ言葉で思い出すのは「砂の上の足跡」という詩です。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」

 主イエスは答えられた。「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。」


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