「教会だより」の巻頭言 2月号

 

過去と未来

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 既に過ぎ去った過去から学ぶことはできますが、人間は、過去を変えることはできません。だから未来に期待をかけます。未来の方に顔を向けて生きようと心掛けます。


  しかし聖書に「未来」と訳されている原文のヘブライ語「アハリート」の語根「アハル」は「背後」という意味です。ヘブライ人の時間に対する向き合い方は、未来を背後に、過去を目の前に置いて生きていました。ということは、時間の流れの中で、顔を向けている方向は過去であって、未来ではありません。


  どうしてそのような生き方をしたのでしょうか。過去は目の前にある確かなことです。不完全とはいえ、調べることも、教訓を得ることもできます。しかし未来は不確かなこと。想像するしかありません。未来は彼らにとって、神の導きの中で訪れることであり、人間は支配できないこと、神を信頼して待つことと考えていたのです。

 

 彼らの信仰は抽象的なものではなく、歴史の中で為された神の行為に根ざす、具体的なものでした。目に見えない未来より、記憶にも記録にも残る過去に行われた神の愛の行為を彼らは大切にしました。

 

例えば、出エジプトの体験に対して、彼らは何を思ったのでしょうか。荒れ野の長い旅は,確かに,つらいものでしたが、あの苦しさは、神の慈しみ、神の愛をより深く知る旅であったと思っていました。

 

神は無意味に人を苦しめることはありません。過去に神が為された多くのことから、神の愛を学び取ったのです。

 

ヘブライ人にとって、過去は手の内にあり、未来は神のみが知る世界。人間があれこれと推測し、神の懐を探るようなことはすべきでないのです。しかし、未来に対する備えを何もしないのではなく、過去を学び、神への信頼を深め、生きる力と勇気を得るのです。同時に未来に対する覚悟をもった心の備えと神の愛に応えるための具体的対策を立てるのです。

 

 私たちは神の慈しみと導きを信じきれない時、未来を予測することを求め、不安と恐れを取り除こうとつとめます。しかし、完全な予測は出来ないし、完全な備えもできません。いつまでも私たちの心には不安がつきまといます。どんなに科学が発達しても、将来、何が起こるか完全に予測することは出来ません。

 

 未来が大切だからこそ、私たちも今まで以上に、世界の歴史と自分の半生の中で、過去に為された神の愛の足跡を見出して、感謝と平安と喜びを深めることができるよう願いましょう。未来に向けて、神への深い信頼を持って、今(現在)を生きるために。


「教会だより」の巻頭言 1月号

 


飛躍の年になれ

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 新年 明けましておめでとうございます。

今年は午年ですから、馬が持つ活発さ力強さにちなんで飛躍の年にしたいものです。

 日本の社会福祉に貢献した牧師、山室軍平の著書『民衆の聖書』に引用された昔話「1匹のキツネがいた。垣根の向こう側にぶどう畑があって、キツネはそれを食べたいのだが、垣根の小さい穴を通り抜けることができなかった。そこでキツネは三日間断食をして腹を細くして垣根を通り抜けた。キツネは畑のぶどうを腹一杯食べて帰ろうとしたところ、また腹がふくれて今度は外に出られなくなってしまった。それでまた三日間断食をして腹を細くしてようやく出てきた。

 

著者は「裸でこの世に入ってきて、また裸でこの世を出ていく人間の運命も、大いにこのキツネと似たところがあるではないか。だから私どもは目前の利欲に迷って、人間の大道を踏み迷うようなことがあってはならない」と言っている。

「欲深き人の心と降る雪は、つもるにつれて道を忘るる」 

マザー・テレサは「信仰を失うより、命を失うことをわたしは選びたい」と述懐している。神の愛と永遠の命を信じるからである。キリストは、私たちの罪深さより、さらに深い愛をもって導いておられる。今も聖霊を通して、その愛は変わらない。

 

愛された者として生き生きとした信仰者に成るにはまず、キリストが示してくれた深い愛を知ることだと思う。キリストが捕らえられたとき、見捨てて逃げてしまった使徒たちは、後でキリストの愛の偉大さを知って強い信仰に変えられた。その後は、その愛に応えたい一心で、殉教すら恐れなかった。日本でもそのような人々が、過去にもいたし、現在もいる。

 

だから新しい年が「今年こそは、偉大な信仰者たちに倣って、キリストをより深く知り、交わる者に飛躍できますように」と祈りたい。そして「イエス・キリストというお方をもっと知りたい」と世の人々に思わせる者になれたら幸いだ。

 

キリストの愛に駆られて懸命に生きることは、神不在、宗教嫌い、人間不信と言われる現代社会において、最も求められている福音宣教の要素ではないかと思っている。

 

不条理と困難に満ちたこの世にあって、どんなことにも感謝と喜びをもって生きる信仰者の姿を見れば、世の人々は不思議に思うだろう。

 

このような生き方ができる人の姿を聖パウロは「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、全ての物を持っている。」(Ⅱコリント 6:10)と述べている。