キリスト教国でない日本のキリスト者は、キリスト教国の人々以上にキリスト者として生きる理由を自問するのではないでしょうか。
遠藤周作は「子供の頃に受けた洗礼とキリスト者として生きることが自分の体に合わない服を着せられているような違和感を覚えていた時期があった。」と証言しています。私たちは、どうしてキリスト者として生きているのか、その確かな理由を胸に秘めているでしょうか。幼児洗礼であろうと大人になってからの洗礼であろうと、確かなものを抱いているかを自分に問う時、誰でも不思議な思いにかられるのではないでしょうか。
この神秘を考える時、使徒たちの召し出し(マルコ1:14-20)の例は、何かのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
聖書によると、まずキリストが先に彼らを呼び出すことによって弟子になりました。普通は師弟関係ができるとき、弟子になりたい人が先に師に願って弟子にしてもらうのが常ですか、キリスト者としての召命は、いつもキリストが先に呼び出すということです。私たちが選んだのではなく、キリストが私たちを先に選び、呼んだということです。キリスト者は、いつも心の底にキリストが私を呼んでくださったという思いがあるのか問わなければなりません。
しかし、それに応えるためには、悔い改めてキリストに心を向けなければなりません。心を神に向けるという「回心」は一生涯のことであって、生き方が変わることを意味しているのです。単に道徳的に改心して行いを改めることを意味する以上に、全身全霊で「神に立ち帰る」ことです。しかし、回心は始まりであって、弟子たちも長い期間をかけて、回心の道を歩みました。私たちも絶えず回心の道を歩んでいるか問われます。
キリストは弟子たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。イエスの召し出しは、ついて行くことが重要なのです。資質や才能があるから、神は私たちを選んだのではありません。ただ神のみ旨によるのです。キリストの教えは、知識を身につければ解るというようなものではなく、共に生きることによって少しずつ分かってくるものなのです。 最初の弟子たちがそうであったように特別な学問的素養がなくても福音を理解し、信じ得るのです。キリストと共に教会の群れの中で生活することが重要なのです。
キリストが求めるのは、どれほど多くの人に福音を宣べ伝えたかとか、信仰の証しを立てる勇気と力があるかということでもありません。ついて行けば、キリストご自身が導き、育て、使命を与えてくださるのです。
私たちの使命は「人間をとる漁師になる」ことです。すなわち、私たちキリスト者の歩みが、人々の心をキリストへと誘い、キリストと共に歩む者へと変えられてゆくことなのです。その意味で、非キリスト教国である日本では特に、私たちの生きざまが信仰の証しになっているのか問われているのだと思います。