「教会だより」の巻頭言 7月号



 今は恵みの時

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

 イエスが「時が満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と宣べることによって、福音宣教を開始されたとあります。この「時」は、時間の長さを表す時ではなく、出来事との関わりで時間を把握したときに使われる言葉です。ここでは、神の業である救いの計画の中で、起こるべき相応しい時期という意味です。最も適切な時期に、神の救いの計画が現実したという意味です。

 そして数年後に、イエスは宣教活動を終えて、十字架上の死を遂げられると「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」(使徒2:24)とあります。これは全く新しい時代の到来を告げるものでした。したがって、新しい時代にふさわしく生きるために、私たちの生きる姿勢も変えなければなりません。この世の事だけにしがみつくような生き方であってはなりません。

 聖パウロは、キリストの贖いの業によって「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)であると言い表しました。「時」が満ちて、新しい時代に入ったこと、すでに神の国は到来し、その建設が今も続けられている。しかし同時に、この神の国の完成は、なお未来にあることも強調しています。(ピリピ3:10‐12)

 神の国は「すでに」到来しているとともに「まだ」完全に実現されていません。それはキリストの再臨によって実現されるものなのです。

 時間の長さを表す時が、あるときは慰めであったり、あるときは悲しみであったり、喜びであったり、苦しみであったりします。しかし、時間は、時々刻々と過ぎ去るものです。だからわたしたちは、時間を最大限に生きながら、同時に時間を超えた「永遠」の次元に生きる者として、主を仰ぎ見、主と共に生きるのです。

「永遠」の前では人間の一生は一瞬のごとく、宇宙万物の中では、人間はちっぽけな被造物の一つにすぎず、全知全能の神のみ前では、人間は無知蒙昧な罪人にすぎません。

 しかし、主に召され、主と共に生きる者は、時間を生きる者でありながら、同時に永遠の次元にも生きる者です。このことを「永遠の今を生きる」ともよく言われます。もし、私たちの恵みの時、解放の時、救いの日は、いつですかと聖パウロに問うなら「今でしょ」と応えるでしょう。

 このような生き方を更に別な言い方をすれば、この世に在り、この世の者として生きながら、すでに神の国に生きているかのように、この世を生きることです。

この世へのこだわりや執着心の強い私たちは、パウロに倣って、主への感謝と喜びのうちに、このような新しい生き方ができますようにと願わずにおれません。