「教会だより」の巻頭言 6月号



考える葦

カトリック唐津教会 主任司祭 江夏國彦

哲学者であり、数学者であったパスカルは、思索に満ちた彼の作品『パンセ』という著書の中で「人間は考える葦である」と述べたことはあまりにも有名です。人間は折れやすい葦にすぎない。自然の中でも極めて弱い、葦のような存在です。しかし、人間は考える力をもっている葦であるとパスカルは述べたのです。

 

それにしてもパスカルが、「葦」という植物を例に挙げたことは興味あるところです。パスカルは熱心なカトリックの信徒であり、聖書に精通していた思想家でした。「葦」を例に挙げたのは聖書に由来していることは明らかです。聖書には、折れた葦の杖(イザヤ36:6)、葦を折る(マタイ12:20)、葦の棒(マタイ27:29)などが書かれています。

 


人間は弱さや欠点があるために、容易に悪に誘われて失敗したり、過ちを犯したりするからです。世界の各地で起きている戦争、身近な社会で起きている殺人事件や詐欺事件、私たちが犯す小さな罪、人間の現実を見つめると私たちは容易に折れてします葦のようです。私たちは、弱さ故に陥ってしまう罪の悲惨さを自覚せざるを得ません。しかし、この現実を超える世界や、神の存在を思索する力を持っています。

 

人間の悲惨さとキリストによる救いは『パンセ』の中心テーマの一つでした。人間が、どんなに悲惨な状況にあろうとも「彼は折れた葦を切り離さない」(マタイ12:20)とあります。キリストは、弱さを身に帯びた罪深い人間を決して見捨てることのない救い主なのです。

 

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ836)ここで言ういのちは、永遠の命です。救いの世界における命です。

 

考える世界、思索する活動は無限の広がりがあります。常識を超えた領域まで含みます。合理性の制約もありません。時間的空間的制約もありません。様々なことを思索する中で、キリストのことばと行いが、本当に私たちの心に響くものがあるのでしょうか。新しい気づきがあるのでしょうか。

思索することによって、本当の人間の本性を深く自覚することができますように。そして人間の悲惨さを超える救いの道へと導かれますように。このように祈りながら思索することは、人間としてふさわしい行為であり、最も尊い行為だと思います。